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キリアとの謁見(1)


私が目を覚ませば、そこにあるのはひとつの巨大な湖だった。
果て先さえ見えないほど大きな湖。周りは気で覆われてはいるが、湖から離れれば離れるほど熱砂が世界を覆っている。

あたりを見回していると、隣にいる女性がこちらを見下げて微笑んでいることに気がついた。
長い黒髪を団子にまとめ、水色の瞳を細めて笑う女性。
熱風などものとせず、襟元までボタンを留めた長袖のシャツに上品なスカートが風に揺れる。

「あら、宇宙飛行士さん。サン・キリアに飛ばされましたか」

彼女は青い瞳を細めて笑う。その顔には汗ひとつすらない。
ここがまるで心地よい温度のような顔をしているが、人は愚か動物の影さえ見えないここは、そんなことはないはずだ。
そんな土地の遠くを見ながら、彼女は話を続ける。

「ここは水と冠していますが、それは名ばかりの区画です。水はこの湖だけ。夜が来れば水面は凍り、歩けるほどに固まる。朝には一瞬にして溶けるほどの熱がやってくる」

こんな環境のおかげで、衛星すら私にはいないんです。と、どこか困ったように笑った。

「まあ困ってはいないんですが。私はサン・キリアの侍女ですから。私に付き従うのはまた違いますよ」

そう言った水星の淑女ーーマーキュリー・キリアは私の横にしゃがみ込むと、太陽の淑女から渡された小瓶の蓋を開ける。

「ここは水星の統治。『水の淑女が祈る湖』。水の淑女の姿を映す巨大な鏡」

光がひとつ抜け出した。それを指先で挟み捕まえた彼女は微笑んでそれを潰してみせる。

「ここは危険ですから、早くお戻りください。どうか、次の場所ではあなたに安らぎがありますように」









水の淑女の手元から発せられた光に目を焼かれ、視界が戻ってきた時。そこにあったのは桃色と金色が融合した不思議な空気の停滞だった。

幻惑的な色合いの向こう側に何やら大きな邸宅があるのが、ぼんやりとわかる。霧のようなそれを掻き分けるように進めば、道中、ローファーが目に入った。

脳裏にはローファーを鳴らして笑うノヴァ・タラッタを思い起こす。もしかしたら彼女では、と近づいて行ったが、見上げた先にいたのは金髪の少女だった。

ブラウンのベストに規定丈のスカートという学生服のような格好。ポニーテールに結われた金髪は揺らめき、エメラルドのような輝かしい瞳がこちらを見下げる。

いつだったか、12星座の森で出会った少女だ。私が見上げていると、彼女は嬉しそうに抱え上げて「お久しぶりです! どうしたんですか?」と問いかけてきた。

「ここはヴィーナス・キリアのエリアですよ。私はたまたま彼女のお手伝いに伺っていたんですが……まさかお会いできるなんて思いもしませんでした!」

彼女ーー天秤座の娘の言葉を受けて理解する。そうか、ここは金星の統治区か。

「ヴィーナス・キリアの地区は初めてですか? ここは『金の淑女が抱く幻惑の檻』。こんな名前ですけれど、そんなに怖いところではないんです」

ただ、嘘は絶対にダメというルールがあるだけ。そう彼女が笑うと、何処からか一陣の風が吹き荒れた。

「あら、丁度いい。見てください、我らがキリアのご登場です」

そんな彼女の言葉を合図にするように、荒れ狂う風をものともせずひとりの女性がこちら側へ歩いてきた。
否、私へ、と言うよりは邸宅に向かっているような足取りだ。

金がかった茶髪に金色の瞳。赤い線が目立つアイメイクは力強く、服装は東洋の装束を思い起こす。荒れ狂う風を刻むように、ブーツのヒールがカツカツと一定のリズムを刻んでいた。

その時点で目を引く容姿ではあるが、それ以上に視線がいくのは口元を覆い隠す黒い布だろう。どんなに風が吹き荒れ、どんなに髪が乱れても絶対に下を覗かせない。乱された後ろ髪には珊瑚のような髪飾りがついている。

そんなヴィーナス・キリアの足音が止まる。吹き荒れる風の中、金色の目が私と天秤座を捕まえた。

今までもキリアとは違う鋭い視線。大型動物が捕食するようなそれ。私の背筋が震える中、天秤座の彼女は臆することなく一礼する。

「ヴィーナス・キリア。本日、貴方の身の回りの雑務を請け負いに参りました。天秤座のズーエルです」

「……ん」

厳しい瞳とは裏腹の柔い声と共に首肯する。そんなキリアを前に、やはりズーエルは臆さない。

「この宇宙飛行士さんは、キリアの方々にご挨拶に回っているようです。なので、無礼は承知ですが、一度お会いできて良かったです」

「……そう。……ああ、君はアースから来たの」

あの星も諦めないね、と彼女は何処か呆れたように視線を落とす。

「私は金星の淑女。貴方の故郷の隣に位置する。アース・キリアは好きだけれど、貴方のことはそんなに好きじゃあない」

顔をぐいっと近づけられる。金眼がしっかりと私を捉える。黒い布はどんなにはためいても彼女の口元を露わにしない。

「探るならどうぞご勝手に。でも、貴方達、自分の星のことさえ理解も管理もできていないじゃない」

黒い布の下から周囲と似た色合いの空気が流れ出る。それがヴィーナス・キリアから発せられていると気づいた頃にはもう遅く、その空気は勝手に私の瓶を撫でて光をひとつ奪い去った。

「私のことを知りたければ、貴方達の生命進化論と取引よ」

そんな言葉を最後に、私の意識は今度は空気に解け始める。

訪れた微睡の先、手放した意識の先。
次に現れる地区を、淑女を、私は知らない。

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