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奇跡と呼ぶにはありふれているけれど 西寺郷太『Temple St.(テンプル・ストリート)』

心臓が2度、止まりかけた日

 その日は、目が覚めたら、体調が悪かった。「悪かった」という4文字で、あなたが想像するより、もう少し悪い。

 胸が、ぐーっと詰まるように、苦しくて起き上がれない。自分は、気持ちが追い込まれると、胸がキリキリと痛みだすタイプだ(病院で検査してもらったこともある。異常なし、だそうだ)。何回も、経験したことではある。

 思い当たる節は、いくつもある。まず、ストレス。年末が近づくにつれて仕事が忙しくなっただけではなく、「ああ、そう……」と落ち込むような事柄もちらほらあり、すくなくとも、健全な精神状態とは言いがたかった。そのうえで、忙しいということは、身体にも疲労があるわけだから、もう、すっきり目覚めろというほうがむずかしい。

 ただ、その日の苦しみは、尋常ではなかった。救急車を呼ぶか、すこし迷った。大げさではなく、「心臓が止まるのではないか?」と思ったほどだ。

 そうはいっても、これは、考えるべきではなかった。そうなると、胸がどんどん押しつぶされそうなつらさが増していく。「まずい、まずい」と考えると、ますます苦しくなる。これも、自分のメンタルの弱さからくる特有の症状で、「こうなるとまずい」と意識すると、その症状がどんどん悪化していってしまう。

 たとえば、天気予報を見て、「気圧が下がるな、頭が痛くなりそうだ」と思うと、ほんとうに頭痛がする。しかし、それは「病は気から」によるものなのか、気候の変動によるものなのか、わからない。だったら、知らないほうがよいのだろう。

 とにかく、胸のつかえをどうにかしなくては。ハーハー言いながらベッドから転げ落ち、窓のほうに這っていき(これはオーバーな書き方。実のところ、1Kの狭いアパートなので、ベッドから降りれば、すぐに窓に手が届く)、ほうほうの体で窓を開け、10分ほど深呼吸していると、どうにか落ち着いた。嵐が去ったような気分になった。

 冬場は、暖房をつけると、ドアや窓を閉め切った状態になる。そのため、換気を怠ると、部屋の中で軽い酸欠状態になる。そんな話を聞いたことがある。もしかしたら、その状態かもしれないと考えて、外気を取り入れ、深呼吸を重ねることで、なんとか平静を保とうとしたのだった。ちなみに、この段落に、エビデンスはない。

 ともかく、胸のつかえはだいぶマシになった。呼吸をどうにか静め、右手を胸にあて、しばらく、ぼんやりとしていた。網戸越しに入り込んできた冬の風は、30過ぎの独身の男には、すこし冷たすぎる。12月だというのに、背中が汗でぐっしょりと濡れていた。

 だめだこりゃ。

 いかりや長介が「もしものコーナー」のオチで言うぐらいの情けなさで、自分の体調に毒づいた。心身ともに、よいところ、なし。がらんとした空気の部屋で、ただ、呆然としていた。独り者は、こういうときにつらい。しかし、誰かがそばにいて、手厚く心配してくれたとしたら、それはそれで、とても申し訳なくなるだろう。

 仕事、休もうかなあ。これからもっと忙しくなってくるし、そういうわけにもいかないよなあ。なんともやりきれない、どうしようもない気持ちでiPhoneに手をのばす。現代人の悪癖の最たるもの。

 せめてメールチェックぐらいはしておくか、と考えつつ、忌々しい青い鳥のアイコンをタップしてしまう。無駄に時間だけを奪っていくタイムラインを眺めていると、ノーナ・リーヴスの西寺郷太が、ぼくが書いたnoteの記事をツイートしていたのが、目に入った。noteの仕様で、ツイートの中に「@merli」が入るので、Twitter上ではリプライとして、自分のもとに届いたのだ。

 驚いた。起きたときよりも、こちらのほうが、心臓が止まる気がした。どうして?

 窓枠にもたれかかったまま、「そんなことある?」と小さくつぶやいたあと、また、いかりや長介の顔真似をしていたことに気づいた。だめだこりゃ、と、カメラ目線で言うときの、あの顔です。1日に2回もやるとは、思わなかった。

ツイートされただけなのだけれど

 本人にとってはエゴサーチの一環だとしても、ぼくは、ノーナ・リーヴスのアルバムや、西寺郷太の活動について書いたわけではない。PIZZICATO ONE(小西康陽のソロ・プロジェクト)のアルバムについて書いたら、そのアルバムに参加していた西寺郷太が反応した、ということになる。よく、見つけたなあ。

 いまのネット社会においては、どこの馬の骨ともしれない人間が書いた記事を、その中に書かれている有名人が見つけるというのは、さして、めずらしいことではない。それをツイートすることも、よく見かける。

 さらにいえば、西寺郷太は、その記事を賞賛したわけではない。あくまでツイートしただけであって、もしかしたら、内容に疑問を呈す意図もあったかもしれない(リツイートは賛同の意を示す行為ではない、ということと似たようなものだ)。前後に、とくに記事に対するツイートもなかったので、真意は計りかねる。

 ツイートされただけ。奇跡と呼ぶにはありふれているけれど。

 メンタルが弱り続け、ついに身体にもその影響が出始め、「これは限界かな」と思った日に、自分がネットに書き散らした文章を、敬愛するミュージシャンがツイートすることにより、驚き、戸惑い、一時的とはいえストレスを忘れられた、というのは、そうそうあることだろうか。神様のわかりにくい悪戯なのだろうか、と書いたら、感傷的に過ぎるだろうか。

 西寺郷太が、ぼくの書いた文章を、読んでくれたのかどうか。そこまでは、自分の知るところではない。読んでほしい、とまでは言わないけれど、「嫌な文章だな」と思っていないことを祈る。

西寺郷太、ソウルへの愛情がまっすぐな人

 西寺郷太はノーナ・リーヴスのシンガーであり、ソングライターである。また、マイケル・ジャクソンやプリンスに関する著作でも知られる。

 この人の文章や、ラジオでの発言などから判断すると、基本的に、愛情をまっすぐに表現する人なのだな、という印象になる。余計な前置きをせず、ストレートに説明し、自分の好きなものに対しては、わかりやすく愛を伝える。衒いのない人、というか。

 ノーナ・リーヴスのアルバムにも、もちろん、すぐれたものが多い。しかし、西寺郷太の中には、どうも「ノーナ・リーヴス」という音楽を、バンドのメンバーで作り上げるものだという、強い意識があるように思える。そこを、変にごまかしたりはしない。

 このバンド名は、Marvin Gayeの娘であるNona Gayeと、Martha and the VandellasでおなじみのMartha Reevesから、それぞれ名をもらい、架空の人格として生み出した女性の名前が由来となっているらしい。

 だからというわけでもないだろうが、ノーナ・リーヴスの作品では、自分たちの好きな音楽、影響された音楽を、バンドで昇華するスタイルをあくまで追求する、といったような姿勢が見える。

 それは悪いことではない。ただ、たとえば、Princeがモチーフであろうという曲の場合、どうしても、「Princeが大好きだ!」というメッセージが、ぐいぐいと前に出てくるのだ。あるいは、「DJ!DJ!~とどかぬ想い~」を聴いて、Kurtis Blowを思い出すなというほうが無理だろう。元ネタがわかりやすい、といってもよい。

 自分を育ててきたもの、愛したものを、直球で出してくるスタイル。ノーナ・リーヴスはThe Isley Brothersの「If You Were There」をカバーしているが、原曲ではなく、Wham!のカバーをコピーしているところも、その方針にのっとっているといえようか。

 なにしろ少年時代の彼は、Michael Jacksonの「Smooth Criminal」の存在を知り、どうしても聴きたくなったあまりに、自分で「素敵な犯罪者〜」という歌詞の「Smooth Criminal」なる同名のオリジナル曲を作ってしまうほどだったというから、愛情をまっすぐに表現することへの欲求たるや、並々ではない。

 ともかく、ノーナ・リーヴスを聴くと、西寺郷太が、自分の持っている表現欲求を、あくまでバンドの形で出すことにこだわっているように感じられる。過去のソウル・ミュージックへのリスペクトはそのままに、バンドのダイナミクスを意識しているわけで、どうしても、アッパーな印象を受ける。

 もうすこし落ちついた形で、西寺郷太を知りたいなら、2014年のソロ・アルバム『Temple St.(テンプル・ストリート)』がいい。バンドでの活動を経て、自分の頭の中で鳴っているものを形にすることを身につけた、ソングライターとしての手腕がじっくり聴ける。ノーナ・リーヴスの音楽性に似ているものの(曲の書き手が同じだから当然なのだけれど)、明らかに、自分自身の視点から作り上げた、という肌触りがある。

バンドとソロの棲み分けができている

 ここにあるのは、まさしく、ブルー・アイド・ソウル。すこしコンテンポラリーなブラック・ミュージックの香りを濃厚にまといつつ、黒人音楽そのものとは(愛情を持ちつつ)距離を置いている、本人が愛した音楽の影響、それを追求する趣味性が、強く出ている。

 それでいて、より密やかに、自分の音楽を追求する姿勢になっているのが、また、いい。宅録というよりは、スタジオにこもって、リズムマシーンとシンセサイザーを活かした組み立て方を重視した感じだ。過去の作品のディティールに固執するのではなく、2010年代らしい音作りもある。ノーナ・リーヴスの方向性に対する、自分の表現欲求との棲み分けがうまい。

 1曲目の「EMPTY HEART」から、よくできている。シンプルなコードの繰り返しの中に、ティト・ジャクソン(ジャクソンファミリーの中で、ティト・ジャクソンに参加してもらうのが、「わかってる!」という感じですよね?)のギターや、しゃれたストリングスなどをのせていく、見事な手腕だ。派手さはないかもしれないが、彼が手練のソングライターだというのは、この曲だけでわかる。

 あるいは、「BLUEBERRY BAG」の楽天的なイントロのベースラインに、1980年代のファニーなMTVの空気感を見出すこともむずかしくない。ノーナ・リーヴスが好きな人にもきっちり刺さるポップが、ちゃんと散りばめてある。

 とはいえ、近年のシティ・ポップ再評価路線にのったような、あるいはディスコ/ブギーの偏愛を隠さないアーバンさをウリにしたような作品とは、すこし毛色が異なる。ポスト渋谷系、といえばよいのか。ほかならぬノーナ・リーヴスが、キリンジらと並んで、そう称されたこともあったはず。

 渋谷系以降のマニアックな音への追求もあるのだけれど、あまりひねくれず、ほどよく彼自身が生きた時代の空気が入っている。よい意味で、1990年代のJ-POP感があるというか。ここでも、自分の中にあるものを、素直に出す。このあたりが、自分が、ノーナ・リーヴスと西寺郷太の曲を愛好する所以だ。

 バンドと比べると、地味というか、ちょっとパーソナルなアルバム。でも、好きですね、こういうの。ソロでやる意味が大いにある作品だと思う。奇跡的な出来と評するには、内容からいっても、ちょっと、大仰にすぎて、ふさわしくないかもしれない。けれど、けっしてありふれたものではない。

 適切な形容を探して、「SMAPが歌っていそう」という表現が思いついたのだけれど、どうだろう。自分の中では、相当に褒め言葉のつもりだ。と、ここまで書いて、西寺郷太はSMAPに曲を提供していたことを思い出した(『We are SMAP!』収録の「SWING」)。あながち、間違いでもなかったかしら。

(ノーナ・リーヴスのアルバムは、活動期によって微妙に作風が違うため、なかなかベストは決めづらい。80'sフレイバーをほどよく消化しつつ、西寺郷太のボーカルを活かした甘いメロディーが聴ける点で『FOREVER FOREVER』を挙げておこう。ファースト・アルバム『SIDECAR』リリースから、明日で23年になるらしい。23年かあ……)


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