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自分の人生は、ちょっとずつ取り返しがつかなくなっている PIZZICATO ONE『わたくしの二十世紀』

もっと、上に行くと思っていた

 少し前に、「お前はもっと、上に行くと思っていた」と言われたことがある。

 突然のことなので、失礼だと感じるよりも先に苦笑してしまったのだけれど。よく考えると、いや、すこし考えてみただけでも、奇妙な話だ。

 上というのはどこだろう?

 なんとなく行ってしまった大学院で、業績を残す存在になると期待されていたのだろうか? ほんとうの秀才たちを目の当たりにして、レベルについていけないことを自覚し、自分が食べていける可能性も思いつかず、退学してしまったわけだけれど。論文も、学会発表も、いま思い出すと、赤面してしまうものだった記憶しかない。これに関しては、情けないの一語に尽きる。

 Twitterが世間に膾炙し始めたときにうまく流れにのって、ネット文筆家になれると見込まれていたのだろうか? 多くの人に注目されることのリスクを計算に入れるのが億劫になり、アカウントを非公開にするまで、それなりに紆余曲折があった。そうでなくても、ナイーブな感情も明け透けに話してしまう自分では、アルファ(うーん、恥ずかしい)になるのはむずかしかったと思う。ネット上に感情を出しすぎたと反省することは、いまでも多い。

 仮に、自分が、大物になると、予想されていたとする。そうなると、都内でつつましく一人暮らしをして、とくに仕事が目立っているわけでもなく、たまに友人などに弱音を吐いて、ときどき酒を飲みすぎる日がある30代など、「失敗」に見えるのかもしれない。

 年を取ると、人の成功だけではなくて、失敗の話も、聞くようになる。

 なにをもって、成功と失敗を決めるのか、という声も聞こえてきそうだけれども。

 たとえば、将来は、大物になりそうだと思っていた人が、一向に芽が出ず、辛酸を舐めていたり、すっかり、いなくなってしまったり。いつまでも組んでいると考えていた人たちが、ある日に仲違いをしてしまって、もう会わなくなったりということも、ときどき聞く。

 いや、これらを、「失敗」と断じられるほど、自分は「成功」している側には、きっと、いない。人間には未来があって、これから先、どんな幸せが待っているかはわからない、と主張する人もいるだろう。反論する気はない。基本的には、自分だって、そう願っている。

 いま、誰かのなにかを「失敗」とみなしていることも、ひどく不遜なことで、勝手な決めつけであり、途方もなく愚かな判断である、という可能性もある。そうであってほしい。

 ただ、なんとも、どうしようもなくなってしまって、この先、よくなることはないとわかってしまうような状況。そして、その現状が理解できるからこそ、なおさら、過去を想って、悔いのようなものが湧いてくるような状況だってあるだろうと、主張することぐらいは、許してもらいたい。

 そういうときに、過去の、明るかった時代を思い出して、追憶とともに、胸がチリチリと痛むことは、誰にだってあるものだから。

 さて、自分は、もっと上に行けたのだろうか?

青春は一度だけ

 あのとき、こうしていればよかった。過去を回想して、そのときから順調に続いていく未来、つまり、「ありうるかもしれなかった今日」を想像する。人生の中で、あるときに確かにあっただろう輝くものが、もっと続いていたらよいのに、と感じること。

 自分の明日のことを信じ、感受性も豊かで、自分の前にある(ように見える)さまざまな障害にまっすぐに立ち向かう精神を持っていた時期、それを、一般的には、青春と呼ぶのかもしれない。

 だけれども、青春は一度だけで、二度とはやってこない。年を取ってから、青春を謳歌しようとする人が、見苦しく失敗していくところを、何度か、見たことがある。そして、自分は、その領域に、もう片脚が浸かっている。

 若いときにしか、有効ではない方法を、年を取ってから選ぶことは、見苦しいとされている。これは、「なにかを始めるのに遅すぎることはない」ような話とは、ちょっと別の問題ではないか。人生の中には、体力だったり、周囲の環境だったりで、そのタイミングを逃すと、もう二度とやってこないような機会とめぐり合うことはない。

 そういう瞬間を謳歌している世代に、上から、その過程を経験したというだけで、なにか物言いをつけることの、みっともなさ。あるいは、それを引きずったまま、その後の生活を続けることの、むなしさ。

 つい最近にも、自分より若い人に、ひどく説教めいたことを言ってしまって、しかも、話の途中で当人に指摘されるという愚を犯してしまった。恥ずかしい、などという表現では、とても言い表せない気分だった。年齢が上というだけで、人に説教されるいわれはないと、若いときに立腹していたのに。

 こういう、小さなトゲが、自分の心に刺さって、抜けなくなることが増えている。大抵は、どうでもいいことなのかもしれないとわかっていても。

取り返しがつかないという気持ち

 取り返しがつかない。そんな気持ちを、いつからか、持つようになった。これは、たとえば、どうしようもない損害をもたらしたとか、今後の人生の立て直しがきかないほどの損失があるとか、そういうことではない。

 ただ、ちょっとずつ、取り返しがつかなくなっている。

 もう、若くはない。「その年齢で、なにを……」と言う人もいるだろう。ただ、これは自分の主観ではなく、事実なのだから、仕方がない。10代、20代の優秀な人が出てきているのを、もう何度も、目の当たりにした。そのうちに、自分にできることは、彼らがもう少しだけ高いところが見えるように、押し付けがましくない姿勢で、ちょっとした礎になるぐらいだけになっていくだろう。

 しかし、ベテランの心づもりができていないのに、この先にはこれぐらいしかないだろうなと、そろそろ逆算が成り立つような時期が来たと認めるのは、苦しさを噛みしめることでもある。ある程度のことを経験したのに、この先にそれ以上の歓びは、もしかしたら、ない。そして、それ以上の責任は、たぶん、ある。そろそろ腹をくくらないといけないのだけれど……。

 堂々と生きたい。生きなければならない。青春はもうないし、仕事の中では手本を見せる機会までめぐってくるようになった(それ自体は、幸運だと思う)。ところが、厭なことはたくさんある。年下との会話で、上滑りすることも、ついていけなくなることも、増えてきそうだ。それらにいちいち、傷ついていると、外側から見ても、内側から見ても、きっと弱く見えてしまう。

 未来はどんどん狭くなっていくのに、選択肢は消えていき、失敗が増えていくとしても、大人としての立場を取り続けなければならない。やり直せる時間も、機会も、もう、あまりないだろうなと思う。これを、取り返しがつかない、と表現しても、間違いではないだろう。

結局、なにも残らない

 そうはいっても、「取り返しがつかない」と、誰かが、嘆き悲しんでいる様子など、そうそう見ることはない。そうなると、自分だけがそのような思考にとらわれているのか、「もっと、上に行くと思っていた」人間は、もしかすると他ならぬ自分ではないのか、などと、気恥ずかしくなる。

 SNSなどで、自分が弱音を吐いているとき、あまりにもみっともない、と考えて、自己嫌悪に忙しくなったこともある。みんな、どうしてそんなに強いのだろうと思っていた。そのうちに、どうも、醜いことはたくさんあって、多くの人は、それらを経験しないのではなく、うまく日常の中に溶かし込んでいるのだと考えるようになった。さらに、溶かしきれない人が、大勢いるのだとも。

 そんなことは、たくさん見てきた。やさしく、強く、芯がぶれないと見られているような人が、陰で文字通り泣いていたり、ネットで注目を集めた文筆家が、テキストを書いたらさっぱりだったと嘆かれたり。みんな、それほど強くないし、成果を出せないことも多い。当たり前の話。

 自分は、その一つ一つを、つぶさに、誰かに伝えることは、とてもできなかった。いまも、人の陰口や噂話、ゴシップを面白がることが、苦手だ。その目を、自分に向けられることが怖い。正当性のないサンドバッグは今日もネットに次から次へと流れてくる。そして、油断すれば(そもそも、前段落の話だって、そうではないの?)、そちらに自分が加担してしまうことも理解している。

 他人の失敗が、次々に決めつけられて、聞きたくもないのに、繰り返し聞かされる。成功したい、あるいは、こんな人たちは成功していないのだと、どんどんレイヤーが分けられていく。自分はどちらだろう。

 やらなかった後悔と、やった後悔。両方が過去にある。でも、うまくいっていても、せいぜいあそこ止まりだっただろうな、あのあたりにつまづいていただろうな、などと、振り返ったりもする。青春を喪って、たいして上に行ったわけでもない人間の実感として。

 いまから思い返せば、あのときに、うまくできたはずだと、勝手に都合よく解釈できる、というだけだろう。ドン・キホーテではないけれど、ほとんどの人は、そのときに応じて、知れる限りの最善を尽くして生きてきたのだ。

 成功しようが、失敗しまいが、結局、なにも残らないのではないか。自分のことを尊敬する人は思い当たらないけれど、自分のことを憎んでいる人はきっといるだろう。いや、これさえも自意識過剰のなせるわざで、自分は、ほとんどの人にとって、どうでもいい存在なのだから。

 なにも残らない。それが普通ではないか? そして、人になにも残さない自分の人生には、取り返しのつかない小さなこと、ときには大きなことが、どんどん増えていく。


小西康陽と、Colin Blunstone

 前置きが、どうにも長くなってしまった。そんなことを考えてしまいがちな、寒い季節には、PIZZICATO ONE『わたくしの二十世紀』を聴く。このアルバムは、とくに、90年代のピチカート・ファイヴの曲に、すこしでも夢中になったことがある人なら、聴いたほうがいい内容だ。

 過去に小西康陽が書いた曲を、さまざまなボーカリストを迎えて、リアレンジしたアルバムである。初めて聴いたとき、「なんて暗いのだろう」と、驚いた。どの曲も、ピアノやギター、小編成のストリングスを中心にした、こういってよければ、地味な編曲がほどこされている。

 ピチカート・ファイヴは、とくに野宮真貴という歌姫が加わってからは、小西康陽が他のアーティストに提供した曲も含め、過去の名曲を次々に引用しつつ、華やかな都会の風景と、そこに生きる人たちの日夜を、みごとに描き出していたように思えたものだ。

 その場に応じて、さまざまな名作のエッセンスを、センスよく並べてみせる。同じように聴こえるものもあれば、耳ざわりがよいだけのように思えるものもある。そのあっけらかんとした姿勢は、嬉々として、自分の趣味をひたすらに消費しているようにさえ見えた。まさに、それが渋谷系のイメージだったともいえるかもしれない。

 しかし、『わたくしの二十世紀』では、どうだろう。楽曲の一つ一つが、落ち着いたアレンジに装いを変えると、あまりにも刹那的な歌詞の世界観や、素朴なメロディーなどが、浮き彫りになる。ピチカート・ファイヴ(そして、小西康陽)のパブリックイメージが、死生観さえも湛えるほどに醒めた視点、「あとにはなにも残らない」というドライなポップ感と、表裏一体だったことが、明らかになる。この作り手は、ポップの魔法を信じてはいるが、夢は見ていない。

 思い出すのが、The Zombiesのメンバー、Colin Blunstoneのソロ・アルバム『One Year』だ。実際、音の質感や、アレンジの雰囲気は、よく似ている。

 『One Year』の国内盤のライナーノートは、小西康陽が担当している。その中で、このアルバムがどれだけ「1980年代〜90年代初頭に、注目されていなかったか」について触れられている。それによれば、The Zombiesはともかく、このソロ・アルバムとなると、中古レコード店でも、ほぼ、投げ売りに近い状態だったという。

 実際、『One Year』は、渋谷系と呼ばれる文脈から評価された流れもある。「Mary Won't You Warm My Bed」などはわかりやすい例だろう。たしかに、いかにも“フリー・ソウル”なナンバーだし、実際、その手のコンピレーションに収録されたことがある。

 The Zombies名義で発表されてもおかしくない1曲目の「She Loves the Way They Love Her」をのぞくと、小編成のストリングスが際立つシンガー・ソングライター然とした楽曲が多い。大げさにならないアレンジと、本人のスモーキーな歌声は、大勢の前で聴かれることを想定してはいなさそうだ。

 たとえば2曲目「Misty Roses」。ひそやかなギターの弾き語りで始まるのに、前半で歌は早々に終わってしまい、後半から弦楽のアンサンブルになる、意外な展開。そして、最後に、コーダのように、ボーカルが戻ってくるときの見事さ。

 プロデュースは、The Zombiesの盟友でもあるRod ArgentとChris White。活動を共にしていたこともあって、コリンの歌声を活かしたサウンドを作る勘所を、心得ていたのだろう。

 小西康陽は、このアルバムについて「なるべく独りで聴くことをお勧めする」と書いており、深く頷いた記憶がある。

 『わたくしの二十世紀』も、そういうアルバムだと思う。


なにもない日曜日

 『わたくしの二十世紀』に、ノーナ・リーヴスの西寺郷太を迎えた「日曜日」という曲がある。「日曜日の印象」と、「新しい歌」という2つの曲を1つにしたものだ(「おかしな恋人、その他の恋人」のフレーズも出てくる)。憂鬱な日曜の午後を過ごす内容の前者と、“きみ”のことを考え新しい歌を作ろうと歌う後者。

 とくに、「日曜日の印象」は野宮真貴が参加する前の楽曲で、独特のモラトリアム感があるのだけれど、そのモラトリアムの空気は、デビューアルバムの『カップルズ』に、特に濃厚だ(余談ながら、『カップルズ』こそ日本で最高の「ソフトロック」のアルバムだと自分は信じている)。

 「日曜日の印象」が収録されているのは、『カップルズ』の次作『ベリッシマ』。このアルバムが、ミュージック・マガジンで「どんなに表面的にスタイルをなぞってみても、音楽にとっていちばん大切なマジックが欠けているから、それはただの音符の羅列にしか過ぎない」「異常なまでのディティールへの執着をのぞけば、創意と工夫のかけらもない、コレクターの箱庭細工みたいな音楽」などと酷評されたことは有名だけれど、この評価はたしかに、ピチカート・ファイヴの音楽を、ある意味、的確にとらえているのではないか。

 その『ベリッシマ』では、田島貴男をボーカリストに迎えているが、彼がアルバムの全編を通して若々しいソウルフルな歌唱法を控え、抑制が効いた歌い方をした理由も、『カップルズ』を横に並べると、見えてくる。小西康陽にとっては、活動の初期から、もう青春は終わっていたのだ。

 話を「日曜日」に戻そう。この曲においては、「新しい歌」のサビで繰り返される”きみにこんど逢う日のために ぼくは新しい歌を作ろう“という一節がカットされている。そのために、なんともぼんやりとした気分の、なにもない日曜日の歌になっている。

 30歳を過ぎたあたりから、自分の人生は、なにかがありそう、なにかがあったかもしれない、と夢想しながら、過ぎ去ることを惜しみながら、そのまま終わりに向かう「なにもない日曜日」のようなものではないか、と思うことがある。

 明らかに、これからは休日ではないし、かといって、いまさら金曜日の夜のように、はしゃぐこともできない。楽しかった時期は過ぎ去ったことを自覚し、残りを逆算していく人生。同情もされないような考え方だけれど、自分は、モラトリアムを引きずったまま、大人になってしまったのか?

 そんな感情を抱いて、過去のことを思い出す。「ありうるかもしれなかった今日」を想像しながら。たしかに、儚く不確かな時間であることをうっすらと自覚しているからこそ、コインの裏表のように、若いときは、刹那的な享楽を噛みしめられる。そんな虚無感を見据えた視点と、その時代を追憶する枯れたノスタルジーが、『わたくしの二十世紀』にはある。

 簡素といえば、簡素。ジャケットの、雪が積もった住宅地の光景のようだ。エコーも深くなくて、広い空間で響いているわけではない。ひそやかなピアノと、ギターの音色。豪奢とはほど遠い、切り詰められた弦楽器の響き。しみじみとフレーズが寄り添ってくる、日本のポップ・ミュージック。

 取り返しがつかなくなっている老いを自覚したとき、自分の毎日を足元からではなく逆算で考えるようになったとき、このアルバムの音楽は、独りであることの慰めとして、心の中に鳴ってくれる。

 それゆえに、最後の曲「マジック・カーペット・ライド」が、かすかな救いに聴こえる。この曲は、以下のような一節で終わる。誰でも若いときに、そのようなことを思って、でも、その瞬間でさえも、信じきれなくて、あとから思い出したときに、やはり、いろいろなことが胸の中によみがえる、そんな言葉だ。それは、もしかしたら、成就しない願いかもしれないけれど。

そしていつか ぼくたちにも子供が生まれるだろう でも いつまでもふたり 遊んで暮らせるなら 同じベッドで 抱きあって 死ねるならね

(小西康陽は、ピチカート・ファイヴについて、「耳ざわりが良くて、何も残らない、ということを音楽の、あるいはこのバンドの重要な要素と考えていた時期がありました」と語っている。あまりにもポップをわかっている人の発言だと、感心するほかない)

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