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カウンセリングの途中にカレンダーを見て、自分は泣いた La Düsseldorf『La Düsseldorf』

自分、カウンセリングに通っています

 音楽を聴くと、元気が出る、勇気が出る、ということが、あまりない。まして、ポジティブな歌詞の曲を聴くと、こちらまでポジティブになる……というようなことは、すくなくとも自分の人生には、ほとんどない体験だった。

 いわゆる「応援ソング」を揶揄するつもりはない。しかし、聴いていてポジティブな気持ちになるような音楽というものが、もしあるとするなら、それは、歌詞以上に、存在そのものがポジティブな力を持っているなにかだろう、と思う。ほんとうに心が打ちひしがれたとき、音楽はとても無力だったりする。

 そんな話を、以前、noteに書きました。今回は、また別の視点から。

 カウンセリングに、通っている。

 通い出したのは、2018年から。この年は、ほんとうに疲弊していた。仕事がほどほどに忙しくなってきたと思うと、春、両親にガンが見つかる。さらに、祖母が急逝。あまりにも突然すぎて、悲しむ暇もなかった。気がついたら、両親は入院して、手術して、祖母の葬儀があって……うだるように暑い、平成最後の夏は、おどろくほどモノクロームの世界が続いていた。

 秋が来たとき、ようやく自分の心はきしみ始める。具体的には、強い抑うつ状態が出始めた。

 2015年に半年ほど仕事に行けなかった時期があった自分としては、あのときの二の舞にはなりたくないと、可能な範囲で仕事を減らすなどして、ストレスを軽減することに努めてみた。その結果、休職ということもなく、地獄のような引っ越しもなんとかこなせた(この経験も、いつか、noteで書こうと思っている)。

 しかし……。そのときは、たまたま逃げ切れたけれど、次はどうか? 生きていく以上は、「Come Rain or Come Shine」ではないけれど、雨の日もあるものだ。なにかストレスを抱えるたびに、抑うつ状態がスタートして苦しみ始め、それを回避するために日々に制約がかかる、というループは避けたい。そもそも、一生、「また働けなくなる」と怯え続けるのも、ずいぶんと、心苦しいものだ。

 どうしたらよいものかと考え、思いきって、カウンセリングに行ってみることにした。対処療法ではなく、根本的に、自分の中にある、絡まりに絡まった毛糸のような心を、少しずつ解きほぐしてみようと考えたわけだ。

 カウンセリングというのも、いろいろある、と思うけれど、あくまで、故人の体験を綴る。自分を担当してくれたカウンセラーは、年上の女性だった。小さな部屋で、ちょっと古いソファーに腰掛けた自分に、彼女は、簡単な自己紹介を終えてから、こう告げてくれた。

「カウンセリングというのは、自分の中を、どんどんと掘り上げていくものだから……もしかたら、つらいことかもしれないんです」

 こんなことを言われてしまうと、がっかりするクライアントもいるのだろう。勇気をふりしぼってカウンセリングに来たのに、つらいことかもしれない、とは!

 しかし、自分は、素朴に感心していた。なるほど。カウンセリングというと、思いをどんどんと吐き出して、スッキリする、というイメージがある。もっとも、それだけで、人間がすぐ快復できるわけではない。たぶん、そういうことを言いたいのだろう、と、そのときは考えていた。

 そして、カウンセリングを続けていくうちに、自分の心の中にある澱のようなものが、少しずつ消えていった。……と書ければ、どんなによいことか。

 現実は、そんなに、単純ではない。

 さっき、「絡まりに絡まった毛糸のような心」と書いたけれど、この絡まったものを、カウンセラーに話していくことが、いかに困難だったか。思っていることはなんでも話してよいと言うけれど、思っていることが、よくわからなかった自分には、なかなか難解な作業に感じられた。

 そして、なんでも話してよいという場所で、さまざまなことを話した自分は、未来への希望ではなく、過去への失望を経験することになる。

愛や情ではなく、カウンセリング

 サッカー指導者で、スポーツライターであり、自らも、うつを患った経験を持つ、木村浩嗣。元ドイツ代表のゴールキーパー、Robert Enkeの人生を、家族や元チームメイト、監督の証言と本人の日記から描いた『うつ病とサッカー』を翻訳した彼は、以下のように述べている。

 鬱は専門家でないと治せない。愛や情はむしろ治療の妨げになることがある。心理カウンセラーは家族を治療できない。父が心理カウンセラーだったことはエンケのためには何の役にも立たなかった。
 イニエスタには命の恩人と呼べるカウンセラーがいる、という。私にもいる。彼は「カウンセリングが楽しみで約束の15分前に着いていた」と振り返っている。
 その気持ちはよくわかる。カウンセリングにはタブーがあってはならない。カウンセラーとの何でも話せる開放感と安心感は、いかに家族や親友であろうと得ることができない。
 だが、だからこそカウンセラーとは恩人であっても友人になれない。心の闇までぶつけて大丈夫なのは相手がプロだからこそ。そんなことをすれば家族関係や友人関係は壊れてしまう。鬱に専門家の助けが必要なのは本人のためなのはもちろん、周りのためでもある。

 これほど、カウンセラーの存在について、的確に表現した文章もないだろう。

 自分が、カウンセリングで何を話しているか、具体的にここに書くことはない。だけれども、そこから生じている心の動きについて書くことは、これを読んでいる誰かのヒントになるかもしれない。

 カウンセリングを経て、いくつかのことを学んだように思う。愛や情は、抑うつから抜け出すことには力をもたらさないこと。自分の苦しみは、誰かの苦悩を解消することに敷衍できないこと。折れた心が元通りに近い状態になるには、ずいぶんと時間がかかること。

 心の中にある不安、恐怖を話し続け、以上のような考えにいたるまでには、やはり、「聞くことのプロ」がいたからだろう。もし、これが、友人や家族だったとしたら、共倒れになってしまうか、「さすがにこれ以上は……」と疎遠になってしまう可能性が高い。

 情けない。もっと若いときに、知っておきたかった。

 自分をしっかり見つめることをしていないくせに、愛と情で、自分の人生も、あるいは他人の生活も、なんとか助けられると思い上がっていたころを考えると、ただ、恥ずかしかった。はやくプロに頼るべきだった。仲がよいからこそ、寄りかかってはいけないときもあるのに。それを、カウンセラーに洗いざらい話したところで、覆した水は盆に返らない。

 カウンセリングが終わるたびに、モヤモヤした気持ちを話せてよかったと思うこともあれば、自分がカウンセラーというプロに求めるべきことを、家族や友人に求めていたかを思い出して、行く前よりも、ずっと落ち込むこともあった。

 なるほど、自分の中を、どんどんと掘り上げていくものだから、つらいこともある。その言葉を噛み締めながら、日々を過ごしていると、自分が矮小で、愚かしい人間であると、断罪しながら生きているような気がして、なんともむずかしい思いにとらわれてしまう。

 憂鬱な感情を少しずつ解体していくと、その中に、過去の失敗、痴態、誤答、そういったものが、いかに積み重なっていたかを痛感する。それらの負の化石たちは、記憶の地層の中で苦しみの石油となり、自分の心の中に溜まり続けるばかりか、ときどき、火がつくと、どうしようもなく燃えさかるのだから始末が悪い。

 そういえば、吉田秀和が『私の好きな曲』で、以下のように書いていた。1950年から60年代にかけて、彼は、未来の音楽は、調整を離れて、無調の音楽でなければならない……と考えていたらしい。そのことを恥じて、こう振り返っている。

「こう書くと、いかにも愚かしく、自分がこんな粗雑な考えであったとは、信じたくもなし、まして、他人に向かって、こう告げるのは、いかにも情けない。もう少しは、高級なことを考えていたのではないかと、自分の慰めのためにも、思ってみたくなる。当時にしてみれば、もちろん、あれこれの議論は用意していたのである」

 自分も、カウンセリングに通うようになってから、何度、そのような思いにぶち当たったことか。知性にあふれた人間ですら、そんな考えを抱く。いわんや凡人をや、である。

 カウンセリングの中で、自分は、漠然とした「大嫌いな自分」を、冷静に分析して、一つずつ、治せるのか、戻せるのか、あるいは放っておくのか、検討していくことになった。これは、たしかにプロとやるべきことではある。ただ、まあ、しんどい。

 なんとなくの自己嫌悪(それを「愛」や「情」と言い換えることは、残念ながら、とても簡単なのだ)でごまかしていた、みっともない姿を、きちんと、反省する。

 文章にすると、当たり前のこと。しかし、自分を思い切り棚に上げて言わせてもらうと、これができている人は、案外、多くないと思う。すくなくとも自分は、30年間、できなかったのだから。

「うれしいね」という言葉が、あった

 短い正月休みも終わった頃、2020年になって、自分は、また、カウンセリングの門を叩いた。己を掘り下げ、しょうもない歴史を想起しては、呆然とする日々が、また始まるのだろうか。そんな不安が、脳裏をよぎったままだった。

 いつものように席についたとき、ふと、壁にかけられたカレンダーが目に入った。のどかな版画風のイラストに、その月のイメージにあわせた短い標語が書いてある……田舎の実家によくあるようなやつです。こんな例えでよいのかしら。

 そこには、こう書いてあった。

ひらける新しい年 うれしいね

 この文言を見た瞬間、しばらく呆然として、そのカレンダーを見つめていた。

 10秒。

 20秒。

 30秒、ということはなかったと思う。

 カウンセラーは、なにしろ、その道のプロなので、その行為に対して、つまり、席につくなり、カレンダーを凝視したまま、固まっていたこちらに、なにも言わなかった(たぶん、これが、カウンセリングで、もっともありがたいことなのだろう)。

 年が変わるだけで、うれしいと思っていい。

 1分(にも満たなかったと思う)ほどの静寂のあと、自分の目から涙がこぼれそうになっていたことに、たぶん、いちばん驚いたのが、自分だ(なんと、読みにくい文章だろう。申し訳ない)。ほとんど声も出せず、すこし時間をかけてから、ゆっくりつぶやいた。それを声に出すのが、妙に、恥ずかしかったので。

「うれしいね、と思っていいんですよね。たぶん、生きているだけで」

 あまりに素朴な感想に思えて、ちょっと、笑ってしまった。まさか、自分が、そんなシンプルな、それこそ、「日めくりカレンダーに書いてあるような」地味な一文に、心を揺さぶられるとは、思ってもみなかったから。

 カウンセラーも、微笑んでいた。そのあとに、なにを話したかは、秘密です。

 その日から、なにかが始まったわけでもない、と思う。自分の心の中に劇的な進化があったわけでもない。

 ただ、うれしいものであってよいのだ。新しい年を迎えられることは。

 そうすると、身の回りにあること、ひいては、生きることを、もうすこし、「うれしい」と考えても、よいのではないか?

 小沢健二の歌詞を引用すれば、失敗のはじまりを反省するときも、最低な気分で額打ちつけてざんげする夜も、その先に、なにかあるのだろうと思うことも、許されるのかもしれない。

 その考えを選んでもよいと思えるようになるまで、カウンセリングを始めてから、1年以上、かかってしまったけれど。

後輩が聴いて、ただ笑っていた

 ただ、生きていることを、うれしいと思っているとしか考えられない、それしかないような音楽。歌詞ではなく、音そのものが、ポジティブな開放感に満ちあふれているもの。

 自分にとって、La Düsseldorfが、そんな音楽にあたる。

 音楽を聴いている、と笑ってしまうときがある。笑いとはなにか、という深淵なテーマについて触れることはしないけれど、たとえば、歌唱力がなさすぎたり、歌詞がひどすぎたりして笑ってしまうことがあれば、驚嘆するほかない技術を見せつけられて、感嘆のあまり、笑いが出ることもある。

 大学院時代、研究室に、小さなスピーカーがあって、そこに自分がiPodを使って、いろいろと音楽をかけていたことがある。あるときは同期のリクエストにこたえてジャズを流したり、あるときは後輩に音楽史の話をするためにクラシックを流したりしていた。

 ときどき、1970年代、1980年代の音楽をかけて、説明を求められることもあったけれど、自分より若い世代に、リアルタイムで経験していない音楽の解説をするのは、なんだか変な気もした。いま振り返ると無知の極みだったし、間違ったこともたくさん言っていた気もする。

 その中に、後輩が聴いて、ただ笑っていた音楽があった。それが、La Düsseldorfだ。

「こいつら、デュッセルドルフしか言ってないじゃないですか!」

とにかく、デュッセルドルフが好きすぎる

 La Düsseldorfは、1970年代前半に活躍し、後のポスト・ロックやクラブ系のアーティストなどにも大きな影響を与えたNEU!が解散したあと、ドラムのKlaus Dinger と、彼の弟であるThomas Dingerによって結成された。

 ジャケットがデュッセルドルフ空港の夜景。そのデュッセルドルフ空港で録音した「飛行機の離陸(着陸かも)の音」で始まる1曲目が、「Düsseldorf」。この、衒いのなさときたら。

 ドコドコしたドラムと、最低限のギターとベースのバッキング、さらに明朗なキーボード。とくにキーボードの「音の広がっていく感じ」は、ジャーマン・ロック界の天才エンジニア、Konrad 'Conny' Plankによるもので、さすがとしか言いようがない。Ultravoxの『Systems of Romance』あたりに通じる音作りが、ここにありませんか。そうでもないかな。

 問題はそこからの展開。ドンタン、ドンタン、という、執拗なドラムはそのまま。それこそ飛行機が飛んでいくようなキーボードの音色と、延々と同じコードを弾きまくるギター。ぶつぶつしたボーカルが乗ったり、たまに叫んだり、効果音みたいにギターソロが入ってきたりするが、これが、13分ほど続く。

 一応、歌詞もあるのだが、「今日は下町に行くぞ、デュッセルドルフ、デュッセルドルフ、デュッセルドルフ、ようこそ、ようこそ」みたいな感じで、もう、意味があってないようなもの。

 底抜けに、楽天的だ(もうちょっとご無体な言い方をすると、バカっぽい)。ポジティブなビートと言葉が反復することによる、問答無用の快感。

 続いて2曲目のタイトルが「La Düsseldorf」。バンド名がLa Düsseldorf、アルバム名が『La Düsseldorf』(まあ、セルフタイトルというのはよくあるものだけど)、1曲目が「Düsseldorf」ときて、2曲目が「La Düsseldorf」というのは……。

 といっても(というか、「やっぱり」)、1曲目と似たような曲である。速めのテンポで「デュッセルドルフ、デュッセルドルフ、デュッセルドルフ、デュッセルドルフ、デュッセルドルフの酒場で、たくさんの悪いやつらと女の子たちと……」といった感じの言葉が連呼される。

 もちろん、難しいことばかり歌わなくてもよいのが、音楽なのだけれど、だからといって、さすがに大丈夫かと、明るすぎて不安にさえなってくる。あまりにもポジティブで単純な意見を見ると、うろたえてしまうことがあるけれど、それに似ている。

 まあ、彼らがデュッセルドルフが好きなのは、よくわかる。

意外に先進的だし、意外に同時代の空気感もある

 おもしろいのは3曲目「Silver Cloud」。ドラムは相変わらず、ズンドコズンドコ鳴っているものの、きらめくようなキーボードの音は、Konrad 'Conny' Plankの面目躍如といったところ。ちょっとポスト・ロックに通じるところもある、美麗なインストゥルメンタルとなっている。

 これを聴けば、彼らがデュッセルドルフと連呼するしか能がない集団ではないことが、わかるだろう。静かになる瞬間もあり、盛り上がる展開もしっかりありと、一本調子にならないように気を使っていることが理解できるはず。最初のフレーズが徐々に変形して、クライマックスを築くさまは、ジャーマン・ロック界において、ありそうでない作り方だ(このジャンルでは、どうも最初から最後まで、ずっと同じだったりするので。べつに悪いことではないけれど)。

 4曲目の「Time」も、Pink Floydに同名異曲があったな、と考えれば、Pink Floydをめちゃくちゃ楽天的にしたように、聴こえないこともない(無理がありますかね?)。ビートこそ、ドコドコしたバスドラムが目立つが、遠くから聴こえてくるようなボーカル、オルガンのようなキーボードのフレーズ、メラメラとしたギターは、彼らが1970年代の空気をいっぱいに吸っていることの証明でもある。

 まったく関係ないけれど、クレジットを見る限り、Kraftwerkの1stとNEU!でドラムを叩いていたはずのKlaus Dingerが、ドラマーでないのは、少々、驚いた。いかにも叩いていそうなのに。

 このアルバムが気に入ったら、彼らの2作目『VIVA』を聴いてみることを薦める。というか、一般的には、そちらのほうが代表作に挙げられることが多いだろう。デュッセルドルフと連呼していないだけで、基本的には同じような世界観だ。

 このアルバムが「プログレ(ッシブ・ロック)」の棚にあると、おかしくなって、いつも笑いそうになる。聴いてみると、また、笑いそうになる。デュッセルドルフで暮らしていることが、たまらなくうれしかったのだろう。そういう音楽。

 どんなに、人生にラッキーなことばかりが続いても、ここまで明るくはなれないだろう。そう考えると、笑ってしまうし、一方で、カウンセリングのような、自分自身を見つめる過程を経てから、なんだか、すこしだけ、親近感を覚えられるようになった気もする。

 いつかデュッセルドルフに行ったら、これを聴きながら、街を歩いてみたいのだけれど。きっと、ずいぶんと間抜けな観光客に見えるだろうな。

(ちなみにKlaus Dingerは後に「la! NEU?」というあまりにもナンセンスなバンド名で活動する。NEU!とLa Düsseldorfをくっつけただけの名前だ。さらにファースト・アルバムのタイトルは『Düsseldorf』だった。バカ負け、としか言いようがない)

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