お笑いに詳しくない人間が、M-1グランプリ2024について感想を書いたら1万字を超えてしまった
記事タイトルの通りです。お笑いは好きだけどそれほど詳しくはない昭和生まれの人間が、M-1グランプリ2024の決勝戦を見て思ったことをつらつら書いていきます。
SNSにだらだらと感想を流していたら、「noteにまとめればいいのに」と友人に言われたので、文章にしたら1万字を超えてしまった。終わってみれば、1万4000字ちょっとくらい(※公開後にちょっと伝わりづらそうな部分があることに気付いたので、一部を加筆・修正しました)。
繰り返しになるが、さほどお笑いに詳しいわけではないので、各コンビのネタに対する感想(「分析」と呼べるほどのものではないと思う)がメイン。3回戦、準々決勝、敗者復活戦などについてはしっかり追いかけられていないので割愛する。ごめんなさい。
令和ロマン
ほぼ完璧、だったと思う。
前年王者として「我々はチャンピオンだ」とコミカルに振る舞い続けてきたコンビ(というか、主にくるま)が、前年と同じくトップバッターだったという奇跡。
それが決まった際の盛り上がりは劇的ですらあり、くじを引いた阿部一二三は「持っている」としか言いようがない。さすがはメダリストである。
そして、せり上がりから出てきたときの、異常な空気。拍手だけではなく「おおー!」「ヒュー!」といった、まるでアーティストのライブのような歓声も上がるという現象は、M-1史上でもそうそうなかったはず。
湧き上がる期待感に応えるように勿体ぶったポーズで登場し、「第19代M-1王者、降臨!」という紹介VTRのナレーションに合わせた「終わらせよう」というツカミでラスボスっぽく振る舞う、くるまの堂に入った佇まい。ジャケットの肩幅も、絶妙にそれっぽいし。それを受けての「怖すぎるって、降臨するなよ」というケムリのツッコミも、過不足ないもの。
スタートから、あまりにも彼らは「王者」の風格を漂わせていた。
ネタの完成度に関しては、繰り返しになるが、ほぼ完璧だったと思う。何がどう……と言うのもちょっとバカらしくなるくらい。そもそも、「小学校の名字による座席順あるある」という、ありふれているがゆえに小難しく考えたらまず出てこなさそうな題材を選ぶ時点で、肝が据わっているというしかない。
終盤の山場、「保護者会で漫才したいだろ! 無双したいだろ!」というくるまの叫びもすごい。有象無象の漫才師が言っても、どうということはない言葉でしかないだろう。
他ならぬ令和ロマンが言うからこそ、「保護者会でもやりたいぐらい漫才が好きなのかよ、そこまでして漫才で勝ち続けたいのかよ」というボケになるのだ。これも、「我々はチャンピオンだ」とフリを効かせてきたからこそ。
「漫才を愛し、研鑽し続けるものしか上がれないステージで、王者になった人」のくせに、それでもムキになって「漫才をしたい、勝ちたい」と主張するから面白いというズルさがある。大人げないのだけれど、同時に王者が言うからこその揺るぎない漫才への愛情が垣間見え、さらには「同じクラスの保護者として漫才がしたい」という、共に天下を取った相方への想いさえも見えてくる。
M-1グランプリは、お笑い界における賞レースの中でも規模や位置付けが最大級であり、2021年には「人生、変えてくれ。」というキャッチコピーが付くぐらい、ある種の“エモさ”が付きまとう大会だ。良きにつけ悪しきにつけ、漫才に人生を捧げるくらいの覚悟がなければ勝てない……というような雰囲気さえ漂っている。
そんな舞台で、二連覇を狙う(ほど、M-1グランプリに賭けている)漫才師が「保護者会で漫才したいだろ!」と叫ぶことは、バカバカしいボケであるとともに、「どんなところでも相方と漫才がしたい」という熱意にも聞こえてしまうのだ。
自分たちが王者だということさえ利用してしまう、驚くべき胆力。
しかし、何よりも、オチ。ほぼパーフェクトなしゃべくり漫才をやったあとに、ツッコミの疑問に対して、ボケが「いや、いねぇだろ〜」と頭を下げながら後ろに引く。それに対するツッコミが「えっ? 終わったんだけど」。
これは、ボケの最後の台詞に対してツッコミが「いや〇〇だろ(そして、もういいよ/いい加減にしろ……などと続く)」と締めるという、漫才への固定観念を裏切る展開になっている。
くじの結果すら利用して場の空気を支配し、ストレートに漫才で実力を見せつけ、突然テンプレからズラすことで完全に虚を突き、一瞬の驚きのあとに観る側を笑わせて終わる。「最後の最後まで、只者ではない」と印象付ける巧みな戦略と、それを可能にする話術。
漫才を見て、「おもしろい」と同じくらい、「強い」と思った。お笑い芸人に対して「強い」とこれほどまでに感じたのは、初めてだったかもしれない。
ヤーレンズ
今年のM-1グランプリで、一番「割りを食ってしまった」のは彼らではないか。
いきなりの令和ロマンの登場、そしてほぼほぼ完璧なネタ、高得点。そして前年準優勝のヤーレンズが出てくる。この流れ、期待するなというほうが無理だろう。だって、彼らは昨年、最終決戦で1票差まで令和ロマンに詰め寄った実力者なのだから。
ただ、令和ロマンはそこまでの流れを「俺たちは王者なんだぞ〜」という誇張した振る舞いでもって、「終わらせよう」というツカミでもって、ネタの完成度と変幻自在のオチでもって、見事に自分たちの空気にすることに成功した。
対して、ヤーレンズは、真っ当に挑んだ。真っ当に良いネタを、真っ当にやった。だから、真っ当におもしろかった。決して悪いところはなかった、と思う。
ただ、その“真っ当”な漫才が、令和ロマンのドラマチックさの後では「普通」に見えてしまったのかもしれない。
令和ロマンの運命的な登場〜圧倒的な完成度のネタを見てからでは、普通に始まって普通に終わってしまった、ように思えた。
だから、海原ともこの「もっとしょうもないものを」という意見はわかる。後半に、見るものが呆れるくらいの、しょうもない、しかし勢いのある畳み掛けが欲しかったのだろう。会場をヤーレンズの色に染めてしまうくらいの。
令和ロマンの「上がりきったハードルを超えた」ドラマのあとでなければ。
あるいは、楢原が石川さゆりを広げすぎて坂本冬美を歌ってしまうようなドジを踏むくだりなどで、もっとハネていれば。
ネタが終わった2人に今田耕司が投げかけた、「あの後、やりにくかったと思いますが」がすべてかもしれない。
真空ジェシカ
真空ジェシカのネタの作り方は、ここ数年、ずっと変わっていないように思う。根本的には「大喜利」だ。川北の強くひねったボケに、ガクがツッコミで解説することで笑いが生まれる。
この基本が変わらないまま、決勝に出続けているのは、並大抵のことではない。ネタの強度で勝負して、飽きられていないということだから。
ただ、M-1の決勝に彼らが初めて出場したときは、「ちょっと頭が良すぎる」気がした。ボケがひねっているから、ツッコミで説明されても、ちょっと難しく感じてしまうというか。
しかし、構成そのものが変わらないままに、技術は年々上がっているのだろう。
ボケもツッコミも「印象に残る(≒難しすぎない)」ワードが増えているので、「ああ、なるほど!」とわかったときの快感が、多くの観客に共有されやすくなっている。
たとえば、「ユージという人です」「人という字じゃなくて!」というくだりの、ひねってはいるけれども万人に伝わるロジック。「うまいことを言っているな」と拍手したくなる感じ。これが、よりわかりやすく、より強度を増している。
あと、ヤーレンズが「後半にハネきらなかった」のに対して、彼らは「商店街の奥の方に行くにしたがって、店舗が迷走してくる」という伏線回収を持ってきて、最後にもヤマを作っている。そのあたりも、高得点につながっているように思った。
マユリカ
あくまで観客(というか、視聴者)の目線でしかないのだけれども、ヤーレンズが令和ロマンのあとに出てきたために割を食ったのだとしたら、マユリカは真空ジェシカのあとに出てきたために割を食ってしまったのではないか。
素っ頓狂なボケに対して、シンプルなツッコミ。わかりやすいのだけれども、「阪本が歌う校歌が『上海ハニー』になっている」「阪本たちのあだ名がモーニングセットのようになっている」という、ツッコミで観客に気付かせる“大喜利”のような流れは、直前に真空ジェシカがもっとうまくやっていた。
それと比べると、ちょっと弱く感じてしまった、というのが正直なところかもしれない。最初のボケが「うんこ(サンドイッチ)」だったのも、安易に感じてしまったのだろうか。
さらにいえば、テンポの良いかけあい、高いテンションという点でも、令和ロマンとヤーレンズを見たあとだと、際立ったものには見えづらいという難しさもあったのでは。
何が悪かったわけではないのだけれども、むしろ漫才としてのレベルはとても高かったのだけれども、突出するところがちょっとなかった、ということになるのだろうか。それはマユリカの問題というより、M-1のレベルの高さの話ではある。
ダイタク
令和ロマンのくるまが、ダイタクを「双子であることが邪魔になるくらい、漫才がうまい」と評していた。その通りだと思う。
当たり前だけれども、彼らの漫才のテンポや間の取り方に、自分のような素人がケチをつけるところなどありはしない。ただ、そこに技量を感じすぎてしまった、という“感心”のほうのが大きかったのかも。
強いて言うなら。大は「浮気がバレそうになったが、双子なので乗り切れた」などといった、ギリギリありそうな笑い話をボケとしていたが、拓は「運転免許証の更新をごまかした」「パスポートを偽造した」という、普通に考えれば犯罪となる行為をボケに使っていた。
何しろ双子としてそっくりということもあり、トホホ話として消費できる大のボケに対して、拓のエピソードは「できるかもしれないけど、それをやっちゃダメだろ!」というリアルさが、うっすらあった。それを面白おかしくフォローしたほうが良かったのでは、という気がする。本当に、ただの素人の意見ではあるのですが……。
ジョックロック
一昔前の業界なら、このツッコミの形だけで、4分の舞台が成立したのだろう。それぐらいキャッチーで、わかりやすい笑いどころの作り方だ。あれだけ大上段に構えたツッコミで、毎回、しっかり拍手笑いが起きていたのは並ではない。
また、MRIのくだりで「あまりピンと来ない人は健康でよかったですね〜!」とカブせたり、「心拍が裏拍」というボケのあとに、心臓マッサージが表拍だと意味がないからとても難しい……というマイムを入れたりと、起きた笑いがより膨らむ形式になっているのもすごい。
しかし、近年のM-1グランプリはレベルが高い。かまいたちの山内が「ボケのところで笑いがない、ツッコミまで行って笑いが起きる、もうちょっとボケのところで何かウケる要素があれば」と言ったのは、やはり鋭い。
そう、観る側はツッコミを「待ってしまう」のだ。そのため、「いろいろな“パープル”になっているところを取り除く」というボケを待っている間も、ちょっとダレてしまう。そのため、後半で、やや落ちたような感じがしてしまったのではないか。
バッテリィズ
シンプル。とにかく、わかりやすい。
エースが「アホ」なので、偉人の名言を理解できない。まっすぐに受け止めて、そのままツッコんでいく。
エースが本当にアホなだけなのか、アホを演じているのかという話は、オードリーにおける春日俊彰の役割と似ていると思っている。
もともと本人の中に40、50くらいはある要素を、誇張して100にしている感じというか。春日俊彰の中にある要素を煮詰めて「春日」というキャラにしたように、「アホな人」であるエースを「アホなキャラクター」に仕上げている。いわゆる“人(にん)”に沿って作られているので、無理がない。
もちろんネタ合わせをしているはずなので、言われることは知っているから、「アホを演じている」という設定にはなる。ただ、あらかじめ言うことを決めていても、本人の性格の延長線上にある言葉だから、感情が乗ってくる。
エースのキャラ設定が本人の延長線上にあるので、地動説を説明されて「自転と公転さえわかれば〜!」と叫んでも嘘に見えない(ならない)という点では、アホを演じているだけでもない……というのがミソだ。
シンプルなボケ(世間の常識に対するアホなツッコミ)ではあるが、本音で言っている(ように見える)。だから、リアルタイムでこちらにも疑問を投げかけられているような面白さ、わかりやすさがある。
そういう意味では、「年配にもわかりやすい」みたいな表現をする人もいるかもしれない。昭和の名人でもやりそうなネタだ、という感覚。
しかし、それだけではない。エースのアホな発言(無知から出たゆえに、ロジックでは否定できない正論)に対して、困惑したり戸惑ったりしながらネタをコントロールしていく寺家の手腕も、評価されるべきではないだろうか。
「アホ」に対して、ただ呆れるでもなく、叱るでもなく、「基本的には間違っていないこと」を言われて戸惑いつつも漫才を進行させるのは、誰にでもできる技ではない。シンプルでわかりやすいもので人を笑わせることは、イコール簡単である、ということではないのだから。
ママタルト
「割りを食ってしまった」という点では、彼らもそうかもしれない。
「アホ」であるがゆえに発言を聞くだけで笑ってしまうエースと違い、大鶴肥満のダイナミックな動きは、檜原のツッコミによって説明されることでボケとして完成する。だから、笑いが起きるまでちょっと遠回りになる。その構図が、やや間延びして見えてしまったのではないか。
また、ツッコミが叫ぶことで笑いが完成するという点では、ジョックロックのほうがよりパッケージとしてまとまっていたことも、彼らが損をしてしまった原因なのかもしれない。
中川家・礼二の「(ツッコミが)普通にいけるところはいって、メリハリを生んだほうが……」という審査コメントは、冷静な分析といえる。または、叫ぶツッコミにするなら、ジョックロックぐらい“形式”にしたほうがわかりやすい、ということでもあるのだろうか。
ただ、登場時のせり上がりでのボケとして、「俺たちの体重に耐えてくれ! 持ち上げてくれ!」と昇降機を応援する流れは本当に面白かった。
せり上がり時でのボケで印象深かったのは、マヂカルラブリーの野田クリスタルの「土下座」と、すゑひろがりずがしっかりポーズを決めていたパターンだが、ママタルトはそれを超えてきた。
あそこで、「持ち上げてくれ、と応援している」ということをわかりやすく伝えた檜原のマイムが秀逸だったことは書いておきたい。あれがなければ、ちょっと伝わりにくいボケだっただろうし。
エバース
とにかく、町田のツッコミの視点がちょうどいい。
シンプルに「アホ」を押し出したバッテリィズが会場の空気を持っていっただけに、雑談のようなかけあいから理屈っぽく展開していく彼らの漫才は、いささか不利ではないかと思っていた。
では、なぜ高得点を叩き出せたのか。素人なりに考えてみる。
町田のツッコミは、本当にバランスがいい。佐々木が次々と展開する屁理屈に対して、観客が「確かに町田の言う通りだ」と実感できる、そして佐々木のボケに対する回答にもなっているという、ちょうどいい塩梅の視点から放たれている。
最初に観ている側を引き込んだ「さすがに末締めだろ」も、そうなのだ。我々の感覚からすれば、「2月29日に会おうと約束したのだが、その約束を履行するはずの年がうるう年ではない」場合、「約束の日は、2月の最後の日、28日になるかもしれない」と考えるのは自然な発想だ。そこを「末締め」という業務的な言葉で急に説明されたから、納得しつつ笑ってしまう。
他にも、「桜の木の下で待っている」と「ポムの樹の下で待っている」はまったく関係がないようでいて、しかし、言われてみれば近いような気もしてくる。バカバカしいこじつけだが、語感からすると「0%である」とも言い切れない。
だから、佐々木の「ポムの樹の下のピザ屋で待っている可能性もあるのではないか」というしょうもない疑問に対して、「そんなわけないだろ!」でもなく、「確かにそうだな!」でもなく、「ちょっとあるなぁ!」とする町田の視点は的確なのだ。
「ちょっとあるかも」とだけ思うことに対して、それを肯定してもらうような気持ちよさ。しかし、肯定している話題が「『桜の木』と『ポムの樹』が似ている」といったようなものなので、しょうもないテーマに対して真剣に妥当性を問うことによるギャップが生まれ、そこに笑いが生じる。これは「2月28日か3月1日か(しょうもないテーマ)」に対する「末締めだろ(真剣に妥当性を問う)」でも同じ構図だ。
あるいは、「好きな男を待っているときの女ぐらい顔を見たらわかるわ!」という叫び。根拠はないのだけれども、多くの人が「確かにわかりそうなものだ」と感じる視点について、町田は叫ぶ。観ているものは、彼に共感し、そうそう、その通り……と頷く。
そういった「みんなが思うだろうポイント」をちょうどいい視点のツッコミが的確に突いてくるため、ロジカルでありながら理解しやすい。それが、今年のM-1の空気にもばっちりハマった理由だろう。ネタそのものはまったく違うが、真空ジェシカが高く評価された流れと同じように。
また、「しょうもないことに熱くなっているが、言っていることは正しい(ように思える)」という点では、バッテリィズのエースとエバースの町田は共通している。前者はアホ、後者はロジカルではあるが、観る側の「視点」と同じ目線に立っているということでは近い。バッテリィズがハネた会場で、エバースがウケたのも、さもありなん。
この視点の確かさが、エバースの武器。今後、順調に売れていくのではないかと思わせるような実力を見せつけた舞台になった。真空ジェシカと1点差、惜しかった。
トム・ブラウン
荒唐無稽。
布川のツッコミが、「そこを指摘してどうするんだ」という感じのことばかり言うのは、彼らのネタにおける重要な点。みちおが主導する不条理な解決方法に対して、「もう死んでるのに威嚇射撃する必要ないから」「鹿になって撃たれんなよ」と些末な点を指摘することで、観ている側の共感を排除する。
そもそも、トム・ブラウンがM-1グランプリの決勝に初めて現れたときの「ダメ〜!」というツッコミだって、「こいつも、何かがおかしい」と感じさせるものだったわけで。
結果、「異常な解決策を出すみちおもおかしいが、ピントがズレまくっている布川もおかしい」という前提が生まれるので、めちゃくちゃなネタが進んでいくこと自体は成立してしまう(なぜなら、2人とも異常者だから「成立しない」という常識は通じない)という仕掛けになっている。
他の決勝進出者と比較するとなれば、たとえばエバースとは真逆に近い。佐々木の筋は通っているが珍妙な理屈に、町田が「観客がちょうど感じるポイント」を指摘することで、日常会話で生まれるようなやり取りを作りつつ“しょうもないことを真剣に話す”ギャップで笑いを取っていくエバース(とはいえ、町田がヒートアップしていくことで、最終的には妙な解決策に向かってしまうのだけれども)。
一方、トム・ブラウンは、容易には理解できない提案と「観客の視点にはまったくないもの」を指摘し続けることで、そもそも日常から大きくズレた世界を作っていく。観る側は、自身の常識と彼らの世界観とのギャップに笑ってしまう。
内容そのものはめちゃくちゃなのだけれども、その「めちゃくちゃな状況」を説明するマイムがしっかり上手いのは、やはり技量の高さなのだろう。「なぜシャンパンのコルク栓を上に飛ばすのか」はわからないが、「シャンパンのコルク栓が上に飛んだから、時間が経って落ちてきて頭に当たる」という状況そのものは、はっきり説明してくれる。
それが、「死体の足がルンバに乗っている」という信じがたいシチュエーションであっても……。
ただ、ネタ終盤でみちおがフラフラになったにも関わらず布川がコールをやり始め、みちおが必死でネタを続けるあたりは、「明らかな異常者の2人」がやり取りしていたにも関わらず、そのモンスターから人間味がこぼれ落ちてしまうことによるおかしみがある。ホラー映画の怪物が、ちょっと人間味のある仕草をすると(疲れたりとか、ちょっとしたことを気にしたりとか)、妙に気になってしまうように。
観客が、「のーんでのーんでのんで!」と叫びだした布川に呆れ、見るからに疲弊しているみちおに同情したあの瞬間、怪物であるトム・ブラウンとの間に共感が生まれる。「動き回ると疲れる」という我々の常識とトム・ブラウン(みちお)の性質が重なるからだ。
しかし、みちおがやってきたことはそもそも意味不明なので、「しょうもないことに熱くなり、我々と同じ反応(疲労)になる」という、エバースがウケた構図と同じになる。みちおがうつむいて肩で息をしているときに笑いが起きたのは、そういう現象だろう。
なんにしても、特定の役柄に依存しない世界観を、2人のやり取りとマイムだけで成立させ、出し物として完結させる。そう考えると、他の誰にもできないようなネタではあるが、しかしトム・ブラウンのネタは明らかに「漫才」だ。
ちなみに、後日「ラヴィット!」で披露した「剛力彩芽の顔を入れ替える」というネタの完成度もすごかった。いろいろなところで、どんどん披露してほしい。
最終決戦:真空ジェシカ
ついに、たっぷり間を使うことさえも、大喜利の解答のように利用し始めた川北。
「ピアノがデカすぎるアンジェラ・アキ」という異常な設定、そして演奏を妨げられると激怒するという流れ、時間をじっくり使って邪魔者を探すというホラーな展開。
長尺の静寂によって、異常な設定が際立つ。M-1という舞台の常識ではありえない時間を使うから、「モンスターのような存在を演じている」というリアリティーが逆に生まれる。
ぶっ飛んだ大喜利の回答を実演している、ともいえる。「静かすぎて隣の長渕剛がうっすら聞こえてくる」というガクのツッコミのフレーズも、大喜利的ではある。ただ、その世界観を成立させる技量は確かなもの。
あと、川北の「まあ、それは、信じる神によるけど……」といった、ガクに茶々を入れるようなボケ。全体の流れには関係ないのだが、このあたりも「わかったときの快感」がある。ロジカルでシュールなのだけれども、「わかる!」となったときの面白さが半端ではない。
正直、優勝しても文句のないクオリティーだった。ただ、コント部分のキャッチーさ、ポップさで、令和ロマンの方がより「わかりやすかった」のかもしれない。
最終決戦:令和ロマン
令和ロマンのくるまが、2本目で披露したネタに対して「水曜日のダウンタウン」の企画「名探偵津田」で出てきた“1の世界と2の世界”の例えを使っていた。
「名探偵津田」の主役であるダイアン・津田の発言を無理くりに噛み砕いて説明すると、1の世界は、いわば「フィクションの世界」。それに対し、2の世界は「リアルの世界」。
役者が役柄を演じることで1の世界の住人となるドラマの舞台に、「これはドラマである」というメタ視点を持っている、2の世界の住人であるはずの津田が放り込まれるのが「名探偵津田」という企画だ。
正式名称は「犯人を見つけるまでミステリードラマの世界から抜け出せないドッキリ、めちゃしんどい説」なので、根本的にはドラマというよりはドッキリであり、津田本人が言うようにRPG的ですらある。
その企画において、津田は混乱しつつも、なんとか事件を解決しようとする。殺人事件が現実に起きている(そうだとすると、2の世界の話になってしまう)わけではないのだが、収録を終わらせるにはそのドラマの中の名探偵役になって事件を解決する(1の世界の住人になる)しかない。
もっとも、この企画に巻き込まれたみなみかわが、津田の複雑な例えに対して「みんながコントをやっているわけでしょ?」と、あっさりわかりやすく解説してしまったのだけれど。
この漫才も、それと同じことが言える。
「コントの世界の住人になったくるまに、その世界に入り込めないケムリがツッコみ続けるが、最後にケムリもコントの世界に思わず入ってしまう」という流れのネタだ。
その流れを説明しているシーンとして、「くるまが武将として馬に乗る動作をして、ケムリがそれに気付き、『こいつがやっているから、仕方なく……』というニュアンスで馬に乗せられている動きをする」ところがある。つまり、この時点では、ケムリはくるまが演じるフィクション、コントの世界にどっぷり入っているわけではない。
だから、あのネタは「コントそのもの」とは言いがたい。
コントだと考えると、くるまが殿様をやったり子どもをやったり敵軍の武将をやったりするところ、“演じる役が変わる”ところの整合性が取れなくなる。
逆に言えば、今回の決勝でいうと、マユリカやジョックロックのネタなどは(クオリティーはともかく)コントにしやすいはずだ。この2組のネタの場合は、2人が演じる役柄と部隊は最初から最後まで変わらない。
それに対して令和ロマンは、くるまの役割は「コントをやっている人」になっている。それに対してケムリは付き合い切れずにずっとツッコみ続ける(タイムスリップした体でコントの中の役割をやろうとするが、「コントをやっている人」に戸惑っている)のだけれども、最後にくるまのフリに乗ってしまい、自分も「コントをやっている人」役になるというのがネタの流れだ。
真空ジェシカの2本目のネタも、構図としては近い。川北は、「ピアノがデカすぎるアンジェラ・アキ」というコントをやっている。ガクはネタの中で、最初は川北の演じるライブの異常さにツッコみ、そこからライブの観客役になることで「アンジェラ・アキ」役の川北にツッコんでいるが、これも川北が「コントをやっている人」役の立場を取り、ガクは川北の演じるコントの世界を外から見たり中に入ったりしている……とも考えられる。
また、「アンジェラ・アキに注意したほうがいい」「まずライブ中に挙手をしたほうがいい」などという流れの中で、その都度、川北(アンジェラ・アキ役)が演奏を一からやり直すのだが、この展開もコントだとちょっと難しいだろう。真空ジェシカは、ガクがライブでの観客役になることで「コントの世界」に入っていく。
一方、令和ロマンの場合は、くるまが延々と演じてきた「戦国の世界」に「2.5次元みたいなやつら」が攻めてきて、「子どもが涙を流す」というくだりで、ついにケムリは「コントの世界」の傍観者から「子どもの涙を見て覚醒するヒーロー」になる。
ベタすぎる、そしてバカバカしすぎる展開。ただ、ケムリが「コントの世界」に入り込むという点だけ見れば、わかりやすい導入ともいえる。
その際の動きが、ただ手を振り回すだけなのも上手い。「コントに入らない≒なかなか演技をしない」という前提から入っていく展開なので、ここでしっかりケムリが殺陣をやると不自然になる。ケムリがただコミカルに暴れているだけだからこそ、それに(くるまが演じる)敵が蹴散らされる描写が面白おかしく感じてしまうのだ。
そして、このネタにおいて、くるまは“タイムスリップ”の後、つまり漫才コントが始まってからは一貫して「コントの世界」に入り込んでいる。対して、「コントの世界」の住人でないケムリは、ずっと受け身だ。ケムリが身体が固いと判明する、城に移動する、子どもに「熊猿」扱いされる……いずれの場面も、くるま側の動きからスタートしている。
しかし、バタバタした動きで戦い始める=「コントの世界」に入る=初めて能動的に動くケムリに、「コントの世界」の住人だったくるまが演じる敵たちが倒される。能動的な主体と受動的な主体がここで入れ替わる。自身が振り回されていたはずの世界に、ケムリが積極的に干渉していく。
ケムリが「それは変だ」とツッコミを入れていたコントに入っていくことは、「名探偵津田」でいうところの「1の世界に2の世界の住人が入っていく」ことになり、観る側としては「フィクションにツッコんでいた人が、やむにやまれずフィクションの世界に入っていってしまう」という状況の奇妙さで笑ってしまう。
「コントの世界」を斜めから見ていたはずの人間(「名探偵津田」でいえば、この役割は津田だ)が、勢いだけの演技で能動的にフィクションに突入していき、その世界の住人たちを倒していく……のだが、その演技もさして達者ではないため、「コントの世界」の中ではそれでも異質な存在になってしまうというギャップとおかしさ。
あのシーンには、「名探偵津田」で津田が探偵役を熱演すればするほど、不自然な演技とそれまでの前フリのしょうもなさから傍観者(スタジオの芸人たち、あるいは視聴者)がおかしく感じてしまう現象と、同じ構図がある。
フィクションに入り込めない、そして演技が達者ではないケムリが、どう考えてもおかしい設定の戦国時代で、いきなり「ヒーロー役」をマジメに熱演する(ハメになってしまう)という流れのくだらなさとカタルシスによる笑いが一気に生じる。
だから、ケムリが「身体が異常に固い熊猿」役を力いっぱい演じ始めてしまうところで、会場に拍手が起きたのだろう。
ケムリとくるまによる「2.5次元みたいなやつら」同士が戦う珍妙な世界観が舞台上で完成した瞬間、くるまはいかにも“2.5次元の舞台でありそうな歌”を歌い始め、バカバカしさをさらにダメ押しする。拍手笑いをしている会場は、ますますヒートアップする……。ここが、あのネタ、もっと言えば今年のM-1グランプリ最終決戦におけるハイライトだった。
「あれは漫才じゃない、コントとして考えるとテンポが悪い」という意見は、ちょっと違っている。純粋なコントにするには無理がある台本ともいえる。「悪ふざけしているボケにツッコミが呆れつつ、最後につい乗っかってしまう」という流れだと考えると、結構ベタに漫才っぽい展開だと思う。
それにしても、「小さい子どもに話を合わせてもらってごめんね……とやる家臣」や、「2.5次元の舞台に出てくる役者のような敵将」を演じる際の表情とマイムに関して、くるまはとても達者だ。こういうところの技量も、チャンピオンにふさわしかった。
最終決戦:バッテリィズ
もし、ファーストラウンドの最後に漫才を披露したのが、バッテリィズだったとしたら。
彼らは、勢いそのままに、優勝していたかもしれない。実際、M-1グランプリ翌日の「ラヴィット!」で、寺家は「令和ロマンと同じぐらいウケるか、ちょっと落ちても勝てると思っていた」というニュアンスのことを言っていた。実際、その通りだとも思う。
なぜ、そうならなかったか。大げさではなく、トム・ブラウンがあまりに「漫才」的ではない漫才を披露したせいで、場の空気が一旦リセットされてしまったのではないか。
仕切り直しになった最終決戦で、1本目よりも狂気度を増した真空ジェシカ、1本目とは異なるパターンを巧みに乗りこなす令和ロマンと、決勝を知る2組が違った引き出しを見せた。
一方、同じフォーマットのネタで挑むバッテリィズは、当然、手の内は知られている。構成や展開ではなく、ワードの強さで勝負しなければならない。
同じことをして優勝できたのが、ミルクボーイだった。彼らは、1本目も2本目も同じフォーマットでありながら、見事な話術と絶妙な発想(面白おかしい「偏見」)を展開して乗り切った。
バッテリィズとて、無策だったわけではない。“墓の話”に辟易したエースが「大阪にも世界遺産のようなものはないのか」と振ったときに、観ている者が「ないことはないが、あれ(古墳)も墓である」と気付く流れは、「エースがアホであり、そのことを知らない」ということを観客が理解するであろう状況を利用した、見事な構成だ。
最終審査で、バッテリィズに3票入った理由もわかる。同じパターンであっても、十分に強いネタだった。
だから、「1本目と違うパターンで、1本目と同じかそれ以上に強いネタを2本目に用意していた」令和ロマンを褒めるしかないのだろう。
令和ロマンの手際があざやかすぎたがゆえに、そしてトム・ブラウンが場を更地にした(バッテリィズの衝撃を断ち切った)あとだけに、バッテリィズの2本目が、ほんのわずかではあるが、「さっきも見たやつだな」と色褪せてしまったのではないか。
所感
M-1グランプリに対して、「お笑いはアホの下剋上みたいな雰囲気が好きだったのに、高学歴がどんどん参入してきた」と感じている、というような意見をSNSで見かけた。
逆に言うと、たとえば令和ロマンなら、分析好きの高学歴と超がつくほどのボンボンの2人が、一切の肩書きを捨ててマイク1本の前で“アホ”たちと真剣勝負している点で、とてもフェアに戦っているとも考えられる。
高学歴ということに関連させれば、令和ロマンについて「良くも悪くも上手すぎる」「理屈っぽく小さくまとまっている」「模範解答を見てるみたい」といったような、強いて言うなら……的なネガ意見もあるそうだ。
しかし、そういう頭でっかち感を隠そうとせず、自然体に横綱相撲ができたことが、何よりも令和ロマンが王者であるという証明になったのだと思う。
「その“競技”にのめり込んでいる人が、4分というフォーマットで“競技”することを研究し尽くして1回チャンピオンになり、さらに研鑽を積んで帰ってきて、その“競技”の大会における最適解を、前例のないプレッシャーの中で最高に近いクオリティで出した」。
単に学歴がどうこうという話ではなく、彼らが、一番おもしろい漫才を決める大会のチャンピオンにふさわしいパフォーマンスを見せた。そこに尽きる。
「人を傷つけない笑い」とか、「賞レース向けの笑い」とか、「高学歴向けの頭を使った笑い」とか、わかったようなわからないようなトピック、あるいは「漫才なのかコントなのか」みたいな不毛な話題も(未だに!)ある。
令和ロマンや真空ジェシカなどを貶して、「正統派漫才に勝ってほしかった」という意見があるが、“正当”な漫才とはなんだろう? しゃべくり漫才のことだろうか?
昭和の時代はギターを弾いたり歌を唄ったりする「漫才」が当たり前だったし、オール阪神・巨人だって「野球の動きに当て振りする」ようなネタをしていたし、夢路いとし・喜味こいしでさえ舞台中を駆け回っていたという。
「漫才ブーム」で脚光を浴びたのがしゃべくり漫才だったことや、「師匠」と呼ばれる世代の漫才師が加齢によってマイクの前からあまり動かないネタを披露するようになったことなどから、なんとなく「あれが正統派!」と呼ばれるようになったのだろう。それだって1980年代以降の話で、長い長い演芸の歴史からすれば“最近”のことにすぎない。
自分の中にある“正統”派漫才という偏ったイメージを振りかざして、現役の芸人たちを否定するというのは、こう言ってよければ「厚かましい」行為にさえ思えてしまうのだけれど。
それにしても、「M-1という舞台と漫才というツールを遊び続けたい令和ロマンのくるま」「たくさん人が見て笑ってくれるから賞レースが楽しいと言い切るバッテリィズのエース」「とにかく真っ当なことをしたくなくてボケずにはいられない真空ジェシカの川北」、それぞれまったく違うタイプの3人ではある。
しかし、「漫才をすごく楽しそうにやっている」点は共通している。その3人がいるコンビが最終決戦に揃ったのは、(良い意味で)今の時代らしいM-1グランプリだったのではないか。
なんだかんだで、「演者が楽しそう」というところが、やはり令和という時代のエンターテイメントに相応しいポイントであるような気がする。
M-1グランプリ2024についてはこんなところで。とても面白かったです。