いつか自分も死ぬことになるけれど

 健康診断で引っかかった。問題があったのは心電図。

 「ブルガダ型心電図」というものらしい。うっかり「ブルガタ」と聞き間違え、「育ったのは新潟、血液型はA型、心電図はブルガタ」というリンゴの腐ったようなライムが頭に浮かんだが、Twitterのフォロワーに「ブルガ“ダ”(Brugada)」であると指摘された。いかに理知的なイメージを取り繕ってみても、無知というのは、このように、たまねぎを剥くかのごとく、はらりはらりと明らかになっていくものだ。

 ブルガダ型心電図が認められたことで、危惧されるのは「ブルガダ症候群」。1992年に、スペインのブルガダ兄弟によって報告された不整脈。多くの場合は一過性の心室細動(心臓が細かく震え、規則的な拍動を失い、全身に血液を送れなくなる状態)を生じるだけだが、重篤な発作が起こると失神し、そのまま死亡することもある、なかなかおそろしい心疾患といえる。

 といっても、ブルガダ型の心電図変化があるからといって、イコール、ブルガダ症候群である、というわけではないらしい。健康診断を受ければ、1000人から2000人に1人ぐらいは、この心電図変化の持ち主が見つかるという。そして、ブルガダ型心電図が認められる大部分の人は、死に至るような発作は起こさないのだそうな。

 (※一応ことわっておくと、自分は医師でもなんでもありません。自身の体調に関しては、この記事を読んで何かしらの判断をせず、きちんと医療機関に相談し、適切に対処しましょう)

 しかし、自分には一つ、嫌な記憶がある。母の友人のご子息が、まさに、この病気で亡くなっているのだ。その人は、夜にベッドに入り、夜中に発作がおきたようで、朝にはもう冷たくなっていたという。普通に生活して眠った人が睡眠中に発作を起こし、翌朝、突然死として発見されることもある疾患だと考えると、楽観視するわけにはいかない。

 というわけで、健診を担当した医師に紹介文を書いてもらい、さっそく精密検査を受ける。診てくれたのは年配の内科医だった。案の定、ブルガダ型心電図を指摘されたので、前もって予習していた成果を発揮し、「この疾患を報告したのはスペインの兄弟なんですよね」と話したら、「なんで知っているんだろうね?」みたいな顔をされた。まったく、素人が余計なことをしても、よいことはない。

 そんなこんなで、再度の心電図(高位肋間心電図とかなんとか)や、心エコー検査などを順繰りに受けていく。ぺたぺたと胸に電極を付けられたり、心臓の鼓動を観察されているとき、白い病院の天井を眺めながら、そこに漠然とした不安をくゆらすように、ぼんやりと物思いに耽っていた。

 自分にも、突然死のおそれがある(ただ、その可能性はとても低い)。その事実に対して、「まあ、しかし、人間は大なり小なり、そういうものではないかしら」という思考が頭に浮かんでくる。

 今の時点で、過度な心配などするだけ無駄なのは理解している。とはいえ、これから年を取れば取るほど、自分も、周りの人たちも、「突然いなくなる」可能性が高くなっていく。それを考えると、やはり途方に暮れてしまう。SNSで身体の不調を訴えていた、仕事先で「最近調子が悪くて」とボヤいていた……そんな友人が1週間後には現世から去っていた、という現実も、この歳になれば、多少は経験している。そんなわけで、自分はなにか不調があれば、すぐ病院に行くようになってしまった。

 さて、検査の結果だけれど、当面は心配するほどではないらしい(不整脈が一切出なかったばかりか、「きわめて正確である」と太鼓判を押された)。心エコーで心臓の動きを見た内科医が、「あなたの心臓ですけどもね、がんばってますよ」と言う。しかし、心臓という器官は、人体の中でも、とりわけ、がんばっていないと、まるで意味がない部位ではないかしら。「がんばっていても、結果がまずいとよろしくないわけですよね」と無粋なことを言ったところ、「ずいぶん……厳しいことを言うね」と目を丸くしていた。

 その内科医によれば、90年代に、ブルガダ症候群の報告者が来日し、日本各地で講演があったという。講演を聞いた日本の医者の中には「俺だって気がついていたのに」と言う人もいたらしい。「だったらあなたが先陣を切って発表すればよかったんだと。医者というのは、いつも後追いで偉そうに言う」と彼は独りごちていた。

 この内科医の専門は循環器で、こちらを安心させるためだろうか、ブルガダ症候群のことを知ると不安になるかもしれないが、まあ、とてもめずらしい症例である、自分もあまり多く見たわけではない、ということを説明してくれた。とはいえ、ブルガダ症候群に限らず、突然に心臓が異常をきたし、不慮の別れを無言で告げることになった悲劇的な現場を、何度も見ていることだろう。自分が仮に医者だったとして、それなりの技術があったとして、その残酷な現実に耐え、医者という生業を長く続けられるかどうか……。

 不規則な生活が続いている自分の立場を考えると、部屋で急に倒れたらそのまま孤独死待ったなしなので、生存報告やSOSの出し方など、いろいろ考えないといけない。一人暮らしは突然倒れても誰かにそれを伝える手段がないし、自分はネット上でもときどき貝のように黙りこくることもあるので、誰も気づかないまま息を引き取っていました……というのは、我が身に降りかかりそうなシチュエーションの一つではある。

 小さい頃、ドラマや映画で「病気が判明して入院、しかし回復には至らず、最後に家族に看取られる」シーンをよく見たものだ。この年になると、すこし年上の世代や同年代ぐらいでも突然の別れがやってくることがしばしばあって、そういう意味で「急に死ぬ」ことは珍しくもなんともない、という事実が重くのしかかってくる。

 そんな自分の憂慮をよそに検査結果を説明した内科医は、最後に、「気にしないこと」を説いてきた。胃腸、あるいは肝臓や腎臓などと違い、心臓の鼓動は、いつでも知覚できる。それゆえに、気にしようと思えば、いくらでも気になってしまう。だけれども、そんなことをしていても、いたずらに不安になるだけだ。もちろん異常を察したり、医師になにか言われれば別だけれど、そうでなければ、気にしないのがよいのだ、と。

 何やらハイデッガーの「死へ臨む存在」を裏返しにしたような話だけれど、はたしてどう考えたものか。死ぬことを過度に恐れず、しかし、生命はいつか死ぬ(そして、その正確な時期を予測することはきわめて難しい)ことを自覚して、悔いなく生きられるか、どうか。まして自分のような、ナイーブでネガティブな人間に、それが可能だろうか。もしかすると、人間の生命に降りかかる理不尽さを目の当たりにすることの多い医師という職業には、ある種の「気にしない」力が求められるのかもしれない。

 いつか自分も死ぬことになるけれど、せめて、親しい人に、感謝の言葉や別れの挨拶を告げられる余裕がほしいと思う。とはいえ、それは、人間が望む行為の中でも、とても恵まれた人にしか与えられないものであることも確かだろう。人生の終わりは、明日かもしれないし、50年後かもしれない。胸に手を当てる。「こちらはがんばっているぞ、文句あるのか?」とばかり、心臓の鼓動が伝わってくる。とりあえず、長い間、結果を出し続けてほしい。


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