不眠と感染症のタンゴ

 不眠がまたひどくなって、寝付くのにずいぶんと時間がかかっている。いや、時間がかかっているというのは間違いで、ほんとうに眠れない。気がつくと、5時、6時になっている。

 眠れないときは作業をすればよいだろうと思うけれど、眠れないとはいっても身体は疲れているので、思考も回っていない。だから、ぼーっと音楽を聴いて、たまに友人にそれを愚痴ってみるぐらいしかない。おかげでnoteに日記を書くモチベーションが失われてしまった、と誰に言うともなく言い訳をする。

 こういうときにアルゼンチンタンゴを聴くと「俺は都会の片隅で不眠症の苦しみを酒と煙草(※これは嘘。非喫煙者だから)で紛らわせているしがない労働者。感染症のせいで人通りの少なくなったこの街で、一本の電話が俺を破滅の道へと手招きしていた……」とくだらないことを考えてしまう。

 感染症! COVID-19は未だに収束を見せることなく、多くの人が問題を見つけて、次から次へと新しい話題で騒いでいる。ワクチンが救いになるとよいのだけれど、Twitterを始めとするSNSでは、相変わらず、みんながみんな、怒っている。疲れないのだろうか。不安だから、ピリピリしているのだろうか。タンゴにおけるヴァイオリンのあけすけなポルタメントのように、人々の気分が乱高下しているのを見るのはなかなかしんどい。数ヵ月前は、社会学者のあり方が話題になっていたっけ?

 まがりなりにも大学院で社会学をやっていたので、真摯で才能のある学生〜社会学者を何人も見てきた。もちろん、どうしようもない人もいるし、自分の専門外のことに口を出して馬脚を露した人だっている。専門分野外のことに対して無理に敷衍しようとしてスベっている学者に対しての呆れる心は強く持っているのだけれど、自分はそこからドロップアウトしたので、偉そうなことを言える身でもない。

 社会学を一生懸命学んで、「自分は食っていくに値しない。諦めよう」と退学して、それすらも「辞める言い訳を探していたんじゃないのか? 学問に誠実ではなかったんじゃないか?」と未だに悔やむような人間にとって、ネットで叩かれている“社会学者”を見ると、情けなくなるのも事実。あなたは、ぼくより優秀なはずではないのだろうか。少なくとも「社会学を嫌うな」と動揺している場合ではない。

 そうはいっても、社会学(者)を全否定されたら、「ずいぶんと社会学にお詳しいこと!」と厭味の一つも言いたくなる。“社会学者”の軽率な発言で、“社会学”のすべてを否定してほしくなかった。

 やはり、その手の学問は、安易な結論を出すことを避ける。学問が社会に対するコミュニケーションというものは、ネットで多数派の意見におもねることでも、科学的な議論を無視して感情的なデマを流すことでもない。むしろ、それらの立場が持つ暴力性に対して、ある意味では冷水を浴びせることもしばしば。ある人が差別的だと糾弾する人たちが、それを錦の御旗にして差別をしないように。自分の恩師は「要するに」という言葉を嫌っていた。要するに、という接続で、多くのことが暴力的に無視されていくことを危惧していた。あのナイーブさと、そこから生まれる冷淡さの両方がほしい。

(それにしても「私たちは『わきまえない』女である」という主張は、括弧付きの“わきまえない”を取り出してるから意味がズレるというか、そもそも老若男女問わず「わきまえない」人はあまりよろしくない。「あなたの『わきまえない』という考え方は間違っている」ということにしたほうがよい、とか。結局、“古い”ロジックを振りかざす人には「ほら、俺の言った通りじゃないか、女性ってこれだから」と返されて泥沼化するのではなかろうか)

 そんなことを考えても仕方がないと思いつつ、Clubhouseに登録したら、疎遠になった人たちがぞろぞろと出てきて、すこしため息をついた。生きていくことはこのように恥を積み重ねることなのだろうか。眠れなくなる要素は増えていくばかりな気がする。

 健康診断などでは引っかからないところで、身体と精神が摩耗していくことの解決策が、なかなか浮かばない。享楽的に生きるには悲観的すぎるし、いろいろなことにセンシティブすぎる。バンドネオンの音色のごとく、自分の人生はドラマティックになるかと思いきや、そんなことはまるでなく、ヴァイオリンの衣摺れのような音がたまに日々のあちこちで軋んでいる。こんな日がいつ終わるのだろうと考えてみる。この日記もまとまりなく唐突に終わる。


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