20/09/30 日記 溺れる者がつかんだ藁

 1日にあったことや思ったことなどを、だらっと書き続ける日記が、250日続いた。キリがよいような、悪いような、微妙な数字です。

 もうすこし実になるようなことを書いていれば、それなりの積み重ねになったのかもしれないけれど、都会に生きている(けれど、都会の人間らしい生活をしていない)30過ぎの独身男性による、ぼんやりした感想が並んでいるだけ。煮ても焼いても食えないテキストの集合体というしかない。

 では、どうして、そんなものを書き連ねているのか。

 数年前、友人が、かなりしんどい事態になったことがあった。込み入っていそうな事情の一つ一つを深く聞くことはなかったけれど、教えてくれた範囲だけでもつらく苦しいことはわかったから、その時期は、よく、一緒に遊んだり、遅くまでどうでもいい話をした。もっと経済的な支援もできればよかったのだけれど、若い自分にそんな力はなかった。

 問題は、相手がその苦しみから徐々に立ち直るたびに、こちらからの連絡を疎ましく思うような素振りを見せていたことだ。自分としては、友人のつもりだったので、遊びに誘ったり、飲みに行こうと言ったりするわけだけれど、流されることが増えていった。

 このあたりになると、「こちらを友人だと思っていないのかな」と考えるようになる。もしかすると、その通りだったかもしれない。しかし、真実はどうだったのだろう。

 向こうは向こうで、こちらに恩義を感じてはいるものの、よく会っていた時期に、だいぶ醜態をさらけ出していたことを、恥じていたのかもしれない(平静ではいられない状態だった、というのは、こちらにもよく伝わってきたのだし)。あるいは、最低な記憶を、自分とやり取りすることで、想起する事態を恐れたのかもしれない。

 そんなある日、自分がちょっと不満を言ったとき、相手が、「こちらは、助けてもらったのに」という前置きから、こう言った。

「自分は最低な人間だと思う」

 溺れる者は藁をもつかむ。友人にとって、溺れそうになったときに、とっさにつかんだ藁が、自分だったのではないか。そして、陸に上がり、元通りの生活を取り戻していくうちに、「溺れそうになってもがいていた自分の姿」を見ていた相手が、面倒になったのではないだろうか。

 そして、その気持ちが出てきたときに、やはり、自己を嫌悪する感情が湧いたのではないか?

 もし、この仮定の通りだったとして、そのことを責めるつもりはない。自分に余裕があって、気のおけない友人として、そばにいてもリラックスできる人間だったら、そうはならなかったかもしれない。不幸にも、そのとき、自分もメンタルに余裕がなく、おまけに金もなかったので、ずいぶんとバタついていたように思う。

 もっとも、そんな時期だったから、相手は、頼れば寄り付いてくれると思ったのかもしれないし、いざ寄り付かれたら、「長く付き合うには不適当だな」と考えたのかもしれない。

 この推測が当たっているのか、見当違いなのか、わからない。いまさら、あえて聞こうとも思わない。とっくに連絡することもなくなり、今ではどういう仕事をしているかさえも知らない。

 友人の家は坂の上にあって、その坂の近くを通るたびに、なんとも言えない(この形容は好きではなくて、見るたびに、「なんとか言えよ」と思うのだけれど)気分になる。もう引っ越したらしいけれど、今の住処の場所も聞いていない。

 生きていると、楽しいこともあるし、つらいこともある。仲良くなる人もいれば、別れる人もいる。もっとも、すべてがわかりやすく単純な話で済むことはなくて、いろいろなことが絡まり合って、こじれていく関係もあるのだと思う。あの友人のように。あの瞬間には、自分のような、ふらふらした人間が相手として必要だったのだろう。そのあと、「自分は最低な人間」という言い訳を浴びせるようになってしまったのも、どちらが悪い、といった話でもないのだろうし。

 生きていく中で、溺れそうになったとき、太い幹を持つ木も、どこかへ届けてくれる船も、見当たらないときがある。そういうときには、藁のようなものであっても、すがりつきたくなる。

 ネットに書く日記というものは、誰に向けて書いているのだろう。自分の感情を整理し、あとから読み返して懐かしむため、といえばそうだろう。その一方で、誰が読むとも知れないところに、己の経験を書き連ねることで、誰かが同情するなり、反発するなりしてくれるという可能性を人生の中に残すことで、社会に生きていることを実感したいとする気持ちが、まったくないと言い切れるだろうか。

 なぜそうするのか、よくわからないままに、今日も日記と呼べないような感情に任せた文章を書く。メンタルもさして強くなく、社会に揉まれてはたいした成果も残せず、毎日の生活の中で溺れそうな自分がつかんでいる藁なのかもしれない。「自分は生きている」と、誰かに伝えたいのだろうか。藁のようにかすかな手触りしかないものだとしても。

 あのとき、友人が、自分を頼ってきたのも、そういうことではなかったか? そして、藁をつかんだ人間は、「なぜそうするのか」と聞かれても、はっきりした答えなどは持っていないのだ。そこには、たまたま、それしかなかったのだから。

 最後に。その“友人だった人”に、「また会いたい」と言われたら、たぶん、断るだろう。水面を漂う藁のようにふらふらした頼りない存在にも、それなりの心があり、傷つくことだってある。

(細部を書いていないとはいえ、こういう私的な話をネットで書くのはよくない、という指摘に対しては、その通りだと思う。ただ、こちらとしても、テキストにして、ボトルメールのようにネットの海に放り投げることで、一区切り付けたいと思うぐらいには、いろいろとあったのです)


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