うるわしくない日々

 メンタルが塞ぎ込んだときにどうなるかは人それぞれ。自分の場合、食事の味がしなくなって困ったことがある。まったくわからない……とまではいかないけれど、文字通り砂を噛むように、茫洋とした味わいになってしまうような感覚。そういうときは、不必要に加熱したり、調味料を大量にかけたりして、味覚に直接「何かを食べている」と訴えかけないといけない。胃が弱い自分にはしんどい話だけれど、刺激がわからないときには、強い刺激でないと理解できない。やたらに辛さを増すようなことは上品ではないから避けたいとはいえ、繊細さが失われている状態では、痛覚に頼りたいこともある。

 その状態が、どうも始まってしまったらしい。つまり、最近、食べ物の味わいがよくわからない。世間ではもう桜も散り始めていて、春の陽気に誘われてか、自粛疲れにあてられてか、人通りも増えつつある中で(それがよろしくないのはわかるものの、では、どうしたらよいか、ということについては、何も浮かばない)、ささやかな賑わいも灰色の喧騒に見えてしまうのは、そして、そのような時期に口に運ぶものに新しい季節の息吹を感じられないのは、まったく自分の心境がもたらしたものと言うほかないだろう。

 ここしばらく、体調不良に苦しんでいる。病は気からと言うけれども、自分の場合は、フィジカルが悪いのか、メンタルが悪いのか、タマゴが先かニワトリが先か……といったところ。煎じ詰めれば「心身ともに絶不調」であって、とくにそれ以外に付け加えることもない。昨年は毎日のようにnoteに書きつけていた日記も、最近では1日を振り返るという行為すら、煩わしくなってしまっている。よくないですね。

 とりわけ困っているのが、眠れないし、起きられないこと。これだけ書くと矛盾しているようだけれども、寝付きがとても悪くて、早朝ぐらいにならないと眠れない上に、いざ目を覚まそうとすると四肢が鉛のように重くてしびれるような感じで、なかなか起きられない、といった具合。どうでしょう。伝わったでしょうか。

 そもそも食欲がない。すぐに疲れる。仕事に集中できない。頭の中に靄がかかったようで、目に見えるもの、耳に入ってくるもの、それらが、ベールを1枚隔てた世界のように、どうも遠く感じられる。生のままの何かしらが、自分の中に素直に伝わってこない。隔靴掻痒というのは、こういうことを言うのか、などと思う。

 さまざまなことがくすんでいて、うるわしくない。自分の住んでいる社会はどうも安定せず、その中に生きる自分は孤独でありながら、あいにく生きる活力がないため、いろいろな事柄に、満足することも向上することもない。ざっくりと言えば、どうしようもない、という形容が似つかわしいのではないかしら。物事の受け止め方として、大仰に過ぎるかな。でも、そんな気分なので。

 ちょっと残念なことに、正直なところ、心身ともに万全な状態とはほど遠く、そして、それを元に戻すために多少の時間がかかるであろうことを、どうも認めないといけないらしくて、気が重い。

 それでも寝転んでばかりではいられないというか、ちゃっかり仕事を続けているところが社会人というか、自分の生真面目なところというか。もちろんこの「生真面目」というのは大ウソで、実際は1時間仕事をして30分横になって……みたいなペースを繰り返している。それでも生活はできているので、独身というのはたいへんに気楽なものです。

 しかしながら、日常的な生活は徐々に失われていって、心が乾いていくような不安を感じなくもない。さまざまな気晴らしに目を向けても、まったくそれどころではなくて、SNSも見たくないといったところ。多くの人が、怒ったり文句を言ったりしている。なんだか、ずっとそんな感じではありませんか。でも、よくならない。もうすこし言えば、よくなっているところもあるのに、乱暴に分断を煽る人が、複雑なレイヤーを単純化してしまい、極端な対立を招くことがしばしばある。AかBかという派閥争いに終始している人たちが、どうも目についてしまう。別にフォロワーに多いというわけではなくて、それを嘆いている人が多い、といった具合なのだけれど。「Aにはどうも賛成しかねる」と言えば、「それならばお前はBなのか」と決めつけられてしまう、といった具合。あれだけ標榜されていた多様性とやらはどこにいったのだろう、と訝しみつつ、意見が異なる人たちと対話をする余裕を持ち合わせていないので、ぼんやりと見つめるぐらいしかやることはない、のかな。

 余裕がない。仕事で根を詰めているからして、ネット上に吐き出す言葉に対しても繊細を心がけると、二重に疲れてしまう。だからといって、私的な発言なので一切の配慮はしませんというわけにもいかないから、それならば、何も見ない、何も言わない方がよいに決まっている。それに、今の自分から出てくるつぶやきなんて、明るいものであるわけがないのだし。友人知人のほがらかなタイムラインに、水を差すような言葉を連ねるのも、ねえ。

 などと書き連ねていくと、今の自分は、見る人によっては、危機的な状況だととらえられてしまうかも。もうすこしばかりソフトな書き方をするべきだろうか。しかしながら、友人や家族にSOSを出すことはおそらくない。骨を折ったときに悠長に人に相談などせず、すぐに医者にかかるように、心が折れたときはきちんとプロフェッショナルに頼るのが筋である……というのは、自分がメンタルを病んだ期間に得た、数少ない教訓の一つです。

 もしかすると、あなたはこの書き手の健康状態を心配してくださるような、心優しい人かもしれない。でも、おそらく、大丈夫。不思議なことに、30代も半ばになると「もう嫌だ」「死にたい」などとは、すぐに思いにくくなる。軽率な結末により、身の回りの人が悲しむと思うと、なんとも気まずい(といっても、その方法を選んだ人たちを責めたいわけではない。現在の自分はそうしないだろう、というだけの話)。そう、気まずいのだ。その気まずさを回避しつつ、生活を続けていく手段を模索することを覚えるようになる。モラトリアムは遠くなりにけり。仕事や社会的責任を放り出そうとするほどに捨て鉢にもなっていない。どうやったら休み休みであっても生活を続けられるかを意識するようになっている。ことほど左様に、まだ分別はある。ご安心ください。

 ところで、こういうnoteを書くことに何の意味があるのだろう、と自問自答するときがある。いや、どうせ意味はないのだけれど、やはりネットに公開するからには書き殴ったものを投稿するのはいかにも心苦しく、多少の推敲はするものの、そもそも、その結果として生まれたものにたいして実りがなさそうに思えて仕方がない。そんなことを考えながら自分のnoteを読み返すと、どんよりとした曇天模様のような日記ばかりが並んでいて、なんだか、「自分は大変なんですよ」と、それとなくアピールしているみたいだ。そんなつもりはないのだけれど、結果として、読み手がどう受け止めるかというと……。そもそも読まれないだろう、と考えるのも早計で、ネット上に公開するとは、よきにつけ悪しきにつけ、意外なところに見つかる可能性をはらんでいる行為であることを、頭の片隅には置いておきたい。徒然なるままにと由無し事を書きつけるのは平安〜鎌倉時代には既に人々の愉しみになっていたとはいえ、それを人の目に触れるところに気軽に置けるような時代になったのは、よいことなのか、悪いことなのか。

 とにもかくにも、まだしばらくは続きそうなうるわしくない日々を、のんびり生きなくては、とは思う。うまくいかないことは、それなりにあるのだけれど。

 最後に……という前置きで話すほど、おおげさなことではないとは思いつつ、先日、面と向かって、「さよなら」と人に言う機会があった。30代になって「さよなら」を口に出したのは、いつぶりなのか。ちょっと記憶にない。久々のことなので、言葉にしたあとに自分でもすこし戸惑って、なんだか奇妙に感じてしまったぐらい。それにしても、「じゃあ、また」や「おやすみなさい」などではなく、「さよなら」を人に言う機会というのも、あと何回あるのだろう?

(先月、自分のnoteにサポートをしてくださった方がいて、驚きながら感謝しています。ただ、その金額を、どう使ってよいものかまだわからなくて、口座には入れたのですが、何となくそのままにしてあります)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?