20/06/19 日記
学歴でも、仕事のうえでも先輩の、年上の友人(文章にするとややこしいのだけれど、そう表現するよりない)と長く話し込んだ。
昔は、その人が怖くて仕方なかった。威圧的な人ではない。当たり散らす人ではない。ただ、話していることのレベルが高すぎた。経験もない、若い自分は、レベルの違いに臆してばかりだった。
その人と話していると、「違うんだよね」という表情をされるときがあった。ほんとうにそう思っていたのかはわからない。それを読み取る力さえ、持ち合わせていなかったのだから。そして、相手の求めている(と、こちらは思い込んでいた)「正解」を出せないことに苛立っていた。
知り合ってから10年近く経ち、その人と互いの考えをすり合わせながら話せるようになっている。
自分の中にある感情のパレットに、さまざまな中間色がある。昔は、(妙な比喩になるけれど)原色しかなくて、常に正しい色を求めていたものだけれど、今はそうではない。「あ、パステルカラーね、はいはい」「萌葱色ですね、そうですか」と考えたり、あるいは、自分の持っていない色を把握することもできたりする。若い頃は、自らが持っている手札も理解できないものだから。
今の自分は、感情の色彩が豊富なのだ。暗い色がちょっと多いかもしれないけれど。
まあ、そうはいっても、長い間、要領を得ない受け答えしかできなかった若造を、ずっと見守ってくださった人がえらいのだ、という話にはなるだろう。
そういう気付きが30を過ぎてたくさんあったものだから、とにかく、自分より若い人が、「わかっていないな」「失礼だな」と感じる言動をしていても、ひどく馬鹿にすることはできないな、と思った。そして、その人たちを諌めることはあっても、自分の言葉で相手を変えようとすることも、すっかりやめてしまった。
どちらも、ひどい思い上がり。そのことに気付くのにも、また、時間がかかってしまった。
それにしても、若いときの自分のみっともなさを考えると頭を抱えてしまうし、これからの人生で、数年後、数十年後に、何かに気付いて、「あの頃はまったくわかっていなかったのだなあ」と感じるのだと思うと、苦笑いしてしまいます。
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