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『LIFE』のパート2ではなく、『LIFE』のその後 小沢健二『So kakkoii 宇宙』

若かった男が、年を取っていく過程

 小沢健二の『So kakkoii 宇宙』は、2006年の『毎日の環境学』以来、13年ぶりのアルバム。ボーカル入りのオリジナル・アルバムとなると、2002年の『Eclectic』以来、17年ぶりとなる。

 彼のこれまでのアルバム、『犬は吠えるがキャラバンは進む』『LIFE』『球体の奏でる音楽』『Eclectic』『毎日の環境学』を、通して聴いてみる。歌詞の中で歌われている人物が(『毎日の環境学』はインストゥルメンタルなので、この表現は少し不適切かもしれないけれど)、そのまま、アルバムの発表年にあわせて、年齢を重ねているように思える。

 つまり、1993年の『犬は吠えるがキャラバンは進む』で歌われる男の、1年後が1994年の『LIFE』に、3年後が1996年の『球体の奏でる音楽』に、9年後が2002年の『Eclectic』に、13年後が2006年の『毎日の環境学』に、そのまま描かれているように、自分には聴こえる。

 『犬は吠えるがキャラバンは進む』で、若さゆえに、あるときは傷つきながら自分の考えを打ち明け、あるときは振り切るようにはしゃいでみせた男は、『LIFE』(と、未だにアルバムに収録されない8cmシングル)で爆発するように青春を謳歌する。一方で、彼は決して愚かではない。そのきらめきが刹那的なものであることも(90年代のシングルをまとめたアルバムのタイトルは『刹那』だった)、それがために一層、尊いものに感じられることも、彼は知っている。いつまでも肯定感が続くわけではないからこそ、彼は、思い、祈る。

“僕は思う! この瞬間は続くと! いつまでも”(「さよならなんて云えないよ」)

 彼は、少し年を取った『球体の奏でる音楽』で、旅をしたり、友人との関係を確かめたりする。『Eclectic』では大人の性愛を見つめ、タイトルの通り「折衷主義」のような作風を取り入れてみたかと思えば、『毎日の環境学』では言葉を操ることをやめ、エコロジー(?)に目を向ける。

 小沢健二は否定するかもしれないが、そこには、ずっと1人の男性が生きていく姿があったのではないか。たとえば、それまでの作風からすれば、『Eclectic』は、異質なものに聴こえたかもしれない。しかし、自分には、『犬は吠えるがキャラバンは進む』『LIFE』『球体の奏でる音楽』に出てきた男の、その後の人生が語られているような気がした。そんな男が、『毎日の環境学』で自然問題に目覚めるのも、なんだか、わかってしまった。

 『So kakkoii 宇宙』は、すぐれたポップ・ミュージックだと思うし、小沢健二がもっともメディアをにぎわせていた1990年代の彼の音楽性に、一聴すると、近づいているようにも聴こえるだろう。ただ、やはり、違う。どちらが上か、下か、ではない。歌われている世界(宇宙)が、だいぶ、離れているように感じられる。

オザケンは「渋谷系」だったのか

 2017年、「流動体について」を、いきなり発表した小沢健二は、「ミュージックステーション」に出演した。その様子を、「渋谷系の王子様がオジサンになってしまった」などと揶揄する向きもあったようだけれど、テレビで見ていた自分は、50歳を間近に控えた彼のような人を、どこかで見た気がした。

 思い出した。大学の教授だ。大学生の頃に、あのような、インテリジェンスを自然とまとわせた年配の男性を、よく見てきた。といっても、誰か、特定のモデルがいるわけではない。教養の高い家庭に生まれ、何不自由なく育てられて、子供の頃から勉強はもちろんスポーツも万能、その勢いのまま大学で学べたような人に特有の、あのオーラ。聡明で理知的、繊細なところもあるが、時にびっくりするほど残酷な冗談を言って笑いもする、浮世離れした雰囲気。そういう人たちに共通する何かが、タモリと話しているときの小沢健二には、濃厚にあった(こういう人が、『うさぎ!』みたいなものを突然に書き始めるのも、いかにもありそうな話だ)。ストリートの香りが、あまりしない。サブカルチャーに通じている雰囲気もあるけれど、しかし、メインカルチャーも当たり前のように摂取している。

 そういえば、小沢健二は「渋谷系の王子様」と言われていたけれど、彼の「渋谷」は、どちらかというと青山の方、港区だったのではないか、という指摘をTwitterで見かけて、とても納得した記憶がある。少なくとも、渋谷区原宿のそれとは、違う匂いがする。

“雨上がり 高速を降りる 港区の日曜の夜は静か”(「流動体について」)

 ただ、このあたりは、リアルタイムで経験した人に、自分の感性が勝てるわけもないので、あまり深入りするつもりはないけれど。渋谷系を直撃した世代に話を聞くと、遊びに行く場所はけっこう下北沢だったりするので、「珉亭」が歌詞に出てきたのはいろいろ刺さったのかもしれない、とか。まあ、こういう話は、当時を知る人に任せよう。

 後追いの世代が偉そうに語ることを、もう少し許してもらいたい。フリッパーズ・ギター時代には数々の「引用」で曲を構成し、ソロになってもさまざまなソウル・ミュージックのフレーズを引用した小沢健二だったけれど、それは「おいしい要素を持ってきて、センスよく並べる」という、いわゆる「渋谷系」と呼ばれる音楽のあり方とは、少し異なっている。もっとも、渋谷系という言葉も、もう、あまりに膨れ上がってしまった概念なので、カギ括弧をつけて、ここでは、あえて、ひどく乱暴に扱っている。

 小沢健二の場合は、自分を構成し、血肉とするものを、そのまま見せてくるような生々しさがあった。『ヘッド博士の世界塔』で、小沢健二(と小山田圭吾)は、自分たちの血と肉と骨は、たとえばBeach Boysで、The Monkeesで、Lou Reedで、My Bloody Valentineで、Primal Screamで、Shackで……ということを、ありのままに見せつけてきた。過去の名作と、当時の流行とを、同時に。「センスよく」並べたのではない。自身の「センス」そのものを、提示する。「〇〇がよかったから、持ってきた!」という感じではなく、「〇〇なんて知っていて当たり前でしょう? ぼくらはそれらでできている」と、笑うようなタイプ。その笑顔の中には、相手が、そのまま受け取るのか、ひねくれて流すのかまでを、観察している素振りさえもある。

 ソウル・ミュージックへの造詣が深いなどというものではない小沢健二が、ヒップホップ、サンプリング・ミュージックにすんなりといかなかったのは、なんとなく理解できる気がする。その要素が強いのは、たとえば1997年の「Buddy」だと個人的には思うが、同年、Zeebraがリリースした「真っ昼間」を、その横に並べてみると、アプローチの違いは明らかになるだろう。港区と渋谷区の違い、などと書いたら、大雑把で、噴飯ものではあるにしても。彼がヒップホップに明るくない、ということではない(スチャダラパーとの親交や、「ドゥワッチャライク」の内容などを考えれば、そんなことはあるはずがない)。

 どちらかというと、「元ネタ」になっている音楽を、自らのものとして演奏してしまうタイプ、といえばよいか。ここでも、そのまま、自分を作り上げてきたものを、自分自身として、見せてしまう。だから、彼は、Stevie Wonderの「Don't You Worry 'Bout A Thing」を、Betty Wrightの「Clean Up Woman」を、レコードからサンプリングしてループさせるのではなくて、するっと、自分の曲に入れ込む(サンプリング的といえば、そうなのだけれど)。『ヘッド博士の世界塔』で、マッドチェスターやシューゲイザーを、そのままやってしまうように。

20代の若さ、50代の希望

 『So kakkoii 宇宙』の、かがやくようなストリングス、跳ねるドラムのビート、残響の少ないモコモコした音のアンビエンスは、たしかに『LIFE』を思わせるところもある(『LIFE』の意図的なミックス、1970年代のソウル・ミュージックを模したようなヌケの悪さは、あのアルバムの大きなポイントだと思うのに、案外、指摘されていないものだ)。メロディーラインを追いかけていくと、Aメロ、Bメロ、サビなどの展開が、よくわからなくなるところも含めて。

 だけれども、これは、過去のヒット作品を再生産しているわけではない。かといって、2019年の洋楽に目配せしたものでもない。相変わらず、小沢健二は、自身を構成しているポップ・ミュージックと、自身の世界観(宇宙観)を、そのままにさらけ出す。

 『LIFE』は1994年の小沢健二が作ったもので、『So kakkoii 宇宙』はそれから25年後、2019年の小沢健二が作ったものだ。最初から最後まで、一気に聴いてみれば、20代の人間と50代の人間の世界は異なるし、その間にいろいろなことがあり、こうならない可能性さえもあった、ということを、聴き手は(おそらく、『LIFE』を好きであればあるほど)意識するだろう。

 50歳からの人生は、やはり、20代のそれとは違う。『So kakkoii 宇宙』に登場する男は、若かったことはある。しかし、『LIFE』に登場する若い男は、50歳だったことはない。

“そして時は2020 全力疾走してきたよね”(「彗星」)
“もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら? 並行する世界の毎日 子供たちも違う子たちか”(「流動体について」)

 凝ったアートワークのパッケージを開いて、歌詞を読み(本作の歌詞カードは、銀の箔押しで、まさしく「カード」になっている)、音楽を聴く。『犬は吠えるがキャラバンは進む』『LIFE』『球体の奏でる音楽』『Eclectic』『毎日の環境学』に登場してきた男の、その後が、歌われているように聴こえる。相変わらず、センスがよくて、教養があり、人によっては鼻につくところもあるだろう。ただ、彼は、もう若くない。醜い世界をたくさん見てきたし、現状にも眉をひそめている。そして、20代の若さはない。それでも、50代の世界から見た希望を歌う。人びとの世界(宇宙)を肯定する。

“君が君の仕事をする時 偉大な宇宙が 薫る”(「薫る (労働と学業)」)
“So kakkoii 宇宙の中に 暗い路地の壁に 森の木に 僕らがいたこと 標してこう”(「薫る (労働と学業)」)

 『So kakkoii 宇宙』は、おそらく、『LIFE』のパート2ではない。『LIFE』のその後、ではあると思う。『LIFE』を作った男にしか歌えない、2019年のポップ・ミュージックである、ということは言えるはずだ。

(それにしても、完全生産限定盤のCDは、歌詞カードと帯がしまいにくいし、CDは外しづらいし、不便なアートワークである。いまさら、そんなところに、文句を言う気もないけれど。ただ、税抜3500円なのには、思うところがないではない。これは小沢健二のせいではない)

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