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「コミュ障」の大人が、「気分よく」いること

「自分はコミュ障である」という言い訳

 「コミュ障」という言葉がある。ざっくり言えば、コミュニケーション障害、という意味の(ネット)スラング。これに、どういう意味合いを持たせるかは人によるけれども、自分が初めてこの言葉を知ったのは、いつの頃だったか。

 いきなりだけれども、自分は、ずっとこの言葉で逃げてきたのではないか、と思う。

 「自分はコミュ障である」という尺度を、便利に使ってきた。

 何かがうまくいかなかったとき、自分は「コミュ障」である、と自分に言う。だからしょうがない、そういう属性なのだから、とする。誰かとうまくいかなったとき、自分は「コミュ障」である、と他人に言う。その自嘲で、相手の鋭い視線から逃れようとする。殻の中に閉じこもるように。

 確かに、自分はコミュニケーションがうまいほうではない。欠点は多い。たとえば、距離の縮め方に問題がある。一気に距離を詰めすぎる悪癖がある……というよりも、相手が人間であれ物事であれ、「考えているよりはやったほうがいいのでは」となってしまうのだろう。

 ゆっくり、付かず離れず、ワンクッション置く、というのが、あまりない。いきなり、聞く。いきなり、行動に出る。この単純さは、何かを始めるときや、物を調べるときは、よい方向に出ることもあるけれど、こと、人間関係となると、不利に働くケースのほうが多い。

 問題なのは、ここで「自分はコミュ障だから」というカードを切っていたこと。うまくいかなかったとき、「コミュ障」だからしょうがないのさ……と言い訳をするために。

 たとえば、「貧乏」とか、「運が悪い」とか、「持ってない」とか、「空気が読めない」とか……まあ、それぞれに意味合いは違うので、単純に並べることは不適切かもしれないけれども……自分の欠点を先回りして言っておくことで、先手を打ち、言い逃れしやすくする心理に持ち込むという手段がある。それと似たようなもので、葉コミュニケーションがうまくいかなかったとき、都合よく、「コミュ障」という言葉に逃げていた。

 とはいえ、コミュニケーション能力に難があることが事実だとしても、自分から言い訳にしたりネタにしたりすると、相手としては、やりづらくなるはず。「まだ何も言っていないのに」「そんなこと、思っていないのに」と考えてくれていて、「それでもこの人と対話を……」と思っていたとしても、こちらの自嘲が、相手との溝を作ってしまう。

 そう、おそらく、自分に問題があるとするなら、「コミュ障」だったことがすべてではない(まあ、コミュニケーション能力に問題がまったくなかった、とは言いづらいけれども……)。自分を「コミュ障」として完結させてきた、克己心の無さのほうが、根深いのではないか。

 言葉遊びのようだけれど、「自分はコミュ障である」という薄笑いの宣言こそが、コミュニケーションをうまく取れないことの証明なのかもしれない。コミュニケーションが上手でも下手でも、相手のことを考えながら、何がよいのかを試行することをやめたときに、コミュニケーションは独りよがりなものになるのだから。

 そう考えると、「コミュ障」を自称しているうちは、コミュニケーション能力に難ありの状況から抜け出せない気がしてくる。

 では、いつ、脱却できるのだろうか。

自嘲から相手の肯定を引き出そうとするのは……

 結局のところ、「コミュニケーションがうまくない」と布石を打っておくことに、下心があったのではなかろうか。自らの欠点を免罪しつつ、自分の中にしっかりとした芯が生まれない空虚さを、他者からの承認で埋めようとした心が、まったくなかった……とは言えないのでは。

 「コミュ障である自分を肯定してもらうために」という回りくどさ!

 「自分はコミュ障である」と宣言し、それでもなお、何かしらの評価を受けることで、「足りない自分」を肯定してもらいことを、期待するような……そんなやましさが、一切なかったと言いきれるだろうか。なんとなれば、「そんなことないですよ」と、相手の否定(≒肯定)ももらえるかもしれない、と。

 「そんなことはないよ、あなたは価値があるよ」と言ってほしさの自己否定ほど、見苦しいものはなかなかない。相手に否定することを期待するような振る舞いは、人にとっても、自分自身に対しても、面白くないことだ。プライベートであれば人は離れていき、仕事であれば周りが恐縮する。本人なりに努力したり改善したりするのではなく、「コミュ障だから」という免罪符を出していたとするなら……。

 よくなかった、と思う。

 そもそも、「よくなかった、と思う」と、まとめること自体に、とても恥ずかしい思いがある。その醜悪さは、間違いなく、自分の中にあったものなのだから。「『自分はコミュ障だから』と自分に言ったらいつまでもそのままだ、他人に言ったら鬱陶しいだけだ」と自覚したのは、最近のこと。

自覚はしても自嘲はしない

 自分は「コミュ障」かもしれない。しかし、さすがに、何もやらない、いつまでも脱却しない(脱却できない、とはちょっと違う点に注意)というわけにもいくまい。コミュニケーション能力に、難あり。これを、自覚はしても自嘲はしない……というところからスタートしなくてはいけない。

 さきほど、「コミュ障」の一例として、距離を詰めすぎる悪癖がある、と書いた。それを自覚して行動すれば、防げることもあるし、防げないこともある。防げなかったときに、その責任を背負うこともしたほうがよいし、時には、覚悟を決めて、大幅に相手のところに跳躍するようなコミュニケーションも必要になるケースもあるかもしれない。その際に、相手の当惑や不安に向き合えるか、どうか。

 あるいは、距離を詰めたことを嬉しく思う人がいたとする。そうなっても相手の懐に甘えすぎず、敬意を持つこと。距離を詰めたことを訝しく思う人がいたとする。そうなってもすぐに自嘲や後悔などに追い込まれず、その相手に対するコミュニケーションを考えていくこと。

 いずれにしても、「自分はコミュ障だから」と逃げている場合ではない。できる範囲で、コミュニケーションを考えていくのが、社会性(の1つ)だから。

 繰り返しになるが、本当の問題は、「コミュ障」だったことだけではなくて、それに逃げてきたこと。コミュニケーションがうまくいくように努力し、うまくいかなくても、安易なフレーズに収めないようにする。自覚はしても自嘲はしない……とは、概ね、そういうことだろう。

 以上のことは、文章にすると、びっくりするほど、「当たり前だろう」という感じでしょう。

 ということは、今までの自分は、それすらもできなかった、と。お恥ずかしい限り。

 「コミュ障」の大人でも、毎日をきちんとやっていかなくては。そう思い至ってから、うっすらと、「気分よくあること」がテーマになった。

 この考えにたどり着いた理由としては、すこし話がそれるけれども、実家の問題がある。

 父方の実家は新潟、母方の実家は東京なのだが、母は新潟で暮らしており、今となっては祖父も祖母もいないため、母方の実家(土地)を売りに出すことになった。

 コロナ禍でなかなか東京に来れない母の代わりに、仕事の合間にさまざまな手続きや相談に奔走しながら、ふと、気付いた。自分にとって、祖父母の代の人間は、もういない。両親も、終の棲家を定める年齢になった。

 「ああ、なんで生きてるんだろう……何をやればいいんだろう……みたいに考える時間は、終わったんだ。社会の中で、下の世代のことも考えながら、ちゃんと生きていかないといけない世代になったんだ」

 自分は未熟だ、何もできない……と落ち込んでいても、仕事はやってくるし、下からやってくる世代を歩きやすくするための礎になる機会もある。この年齢になってくると、自分の機嫌次第で、状況が変わることさえある。

 機嫌が悪かったり、自嘲癖が過ぎたりすると、自らのパフォーマンスに影響が出るだけではなく、関わる人たちの精神衛生にもよくない。「いやー、ぼくなんか全然だめだよ」という若手にぶつくさ言う年上の人、めんどうくさいじゃないですか。アンガーマネジメントという言葉があるぐらい、社会人にとって、機嫌をコントロールすることは大事なものらしい。

明るくやらないと、駄目でしょ

 その自覚が生まれてきた一方で、長年染み付いた自嘲癖から抜け出すことは、なかなか難しい。30を過ぎて、こんなことを書くと、「幼すぎるのではないか」と思われるかもしれないけれど、実のところ、自分より年上の人でも、この習慣が抜けきっていない人は少なくないものです。もちろん、だから自分は悪くない、ともならないし。

 気が付いたら、自分は、言い訳をしようとする。人にだけではなく、自分自身に対しても。キリンジの歌ではないが、「僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで」というわけにも……。

 毎日の中で、誰かと話しているとき、仕事がうまく回らないとき、1人で歩いているとき……ふと、「いや、どうせうまくいかないよ」「自分なんてダメだよ」と言おうとしている。頭が自然と考えている。この言い訳を杖にして、2本の足で歩くことを怠ってきた人間の(比喩的な意味での)筋力が、そうさせるのかもしれない。みっともないことではある。

 とはいえ、その考えを打ち消して、一つ一つ、ゆっくりやるしかない。文章にすると「それはそうだろう」という感じになってしまうけれど、やり続けるには、それなりの意志が必要だろうから。当たり前のことを大事にすること。拾わなくてはいけないものを拾っていくこと。周囲の人の気持ちをケアするのはもちろん、自分自身のケアを忘れないこと。なんだか、前回の記事と、同じテーマになってしまうけれど。

 シンプルに言えば、「気分よく」いることが、大人なのだろうから。「コミュ障だから」と逃げていても、しょうがない。

 明るくやっていくこと。とても単純ながら、それゆえに、そうあり続けることがなかなか難しいもの。自分は、おそらく、それを心がけるべき世代になっている。

 山下達郎のインタビュー記事が、話題になっていた。Yahoo!ニュースのトピックスでは、サブスクに対する発言を見出しにしていたが、その部分以外も、ポップ・ミュージックの世界に生きる人間としての矜持を感じられるものだった。自分の心に深く刺さったのは、最後の最後。

「いろいろあっても、春が来て花は咲くしね。雨は降るし、空は変わらない。明るくやらないと、駄目でしょ」


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