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パリ24時間

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2023年4月のパリをウロウロする人たちの話です。皆今日も、虚構と現実、記憶と感覚、後悔と不安の間で生きる。
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記事一覧

パリ24時間(7)異端審問者の午後

 急に風が冷たくなったような気がした。時間はそれでも午後4時をまわったばかりだ。  ルチアが去ったル・ドルシェステルのテラスで、オルガは書類鞄の底から四つに折られた一枚の紙を引き摺り出した。それは、今年の工芸学校(アールゼメチエ)の奨学金候補者のリストだった。2週間前、審査員のオルガにも通達されたのだが、オルガは候補者をざっと眺めて、そのまま放置していたのだった。審査などないことはわかっていた。今年の合格者はエコールノルマル・サン・クルー校出身のイザベル・ラトゥールになるはず

¥100

パリ24時間(6)二人の老いた少女たち

          II  10時半。ポルト・ド・ヴェルサイユに戻ったオルガは自宅に寄らず、直接買い物に向かった。今日は夕食に娘夫婦と婿の両親を招待している。3ヶ月前からの約束で、キャンセルするには相当な理由が必要だ。ちょっと忙しくなるけどやってのけよう。  メインはココットチキン*。とても簡単だし、何よりミシェルが喜ぶ。それから、サラダ、チーズ、デザート。20時にはギリギリ間に合うはずだ。  幸いなことに、オルガの住む集合住宅の1階にはモノプリが入っている。鶏はブロイラー

パリ24時間(1)ポルト・ドーベルヴィリエ

          エストニアから来た風は、西へ西へと進んで、ドイツ北部に広がる穀物畑の上を吹き渡った。ロッテルダムの港は、カモメの喚き声と北海の雪の匂いでいっぱいだった。鱈漁船の船底に積もってやってきたのだ。そこでは、ゲルマンの音と違うくぐもったフラマンのG音が、暗い春を予感させた。風は進路を変えた。大きな川に沿ってどこまでも行くと、ゴシック教会の鐘が一日中鳴り響く場所に来た。同じくらい沈鬱なその響きの中にフランス語のリズムが聞き取れた。ややべとついているものの、紛れもない

パリ24時間(2)11区のヴィラ

 パリの東側、メトロ8番線のバスチーユとレピュブリックの間に、「レ・フィーユ・デュ・カルヴェール(十字架修道院の尼僧たち)」と呼ばれる小さな駅がある。1箇所だけの出口はフィーユ・デュ・カルヴェール緑道(ブールヴァール)に開いており、ブールヴァールから西に短いフィーユ・デュ・カルヴェール・ストリートが伸びている。  この一帯はマレ地区からオーベルカンフを結ぶ点なので、土曜はパリのクールな30代で賑わう。仕事をしていれば、何々エディター、デザイナー、エンジニアと呼ばれる職種であり

パリ24時間(3)荒野行動或いは左翼的恋愛

 ニコラはコリンヌを見ている。コリンヌはトマを見ている。トマの目は、シャルロットとレミの上を通り過ぎ、時々イザベルの金髪に、時々アンヌ・ソフィーの栗色の髪に落ちる。シャルロットはトマとレミの両方から顔を背け、宙を見つめている。レミが立ち上がる。シャルロットを詰問している。彼女の膝に泣き崩れる。イザベルはクリストフに目配せする。クリストフは眉を顰め、首をかしげる。イザベルは首を振る。クリストフは背中を捻って後ろの席のコリンヌに尋ねる。  またしてもイザベルの目は、テラスの向こう

パリ24時間(4)若さ或いは無自覚な凡庸

 地鳴りのような震えがコートのポケットから伝わってくる。10回以上は繰り返されている。3600マイルの彼方で、リリアナが苛立っているのがわかる。アルディティからジャン・フランソワが勝手に出ていったと聞いて、矢もたてもたまらなくなっているのだ。  せっかくお膳立てしてやったのに!と喚き立てる男のような声が聞こえる。アルディティに気に入られたら、フランス国営テレビ、プライムタイム、人気番組に出ることもできたのに、ああ、全部壊してくれて!リリアナが怒っているのは自分のためじゃない。

¥100

パリ24時間(5)兵士オルガの朝

                                           I  月曜日朝6時。パリ15区、ヴォジラール通り340番(メトロ「コンヴァンシオン」または「ポルト・ド・ヴェルサイユ」)。オルガ・ドラトル・ド・タシニーの1日がはじまった。今日はとても忙しい。午前中に夫をデイケアに送る。昼までに買い物をする。夕食の下拵えをする。昼にカルチエ・ラタンで友達と会う。お茶の時間に3区でスペイン語翻訳者のルチアと会う。彼女とランソンの次の密会をなんとしてでも阻止する