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主任教授

謦咳けいがいに接する』とは最近あまり聞かなくなったけれど、尊敬する人の言葉を身近に聞くという意味の言葉。

先日のこと、芸能人を生徒に見立てて学校形式で進行するクイズ番組のはしりは『平成教育委員会』だ。なんて言う人がいたものだから、いやいやそれを言うなら『クイズ面白ゼミナール』でしょうと思ったものです。それでふと気になって調べたら、番組司会であられた元NHK・鈴木健二アナウンサーは今年(2024年)亡くなられていたのですね。わたしは当時まだ小学生でしたが『面白ゼミナール』が大好きで毎週欠かさず観ていました。書籍化はもちろん電子ゲーム化までされる大変人気の番組でした。ゲームのパッケージに描かれている『主任教授』(鈴木アナのこと)は何に忖度したものか頭髪がフサフサだったのですが、電源を入れるとちゃんと(?)ツルツルのお姿で表示されてほっとしたことを覚えています。

そんなある日、おもいがけないことに鈴木健二アナがわたしの住む街にやってきたのです。市制何周年といった記念事業の一環としての講演会だったかと思います。わたしは当時仲の良かった友達と二人連れ立って行ったのでした。会場に子供の姿など他にあるわけもなく、わたしたちは周りの大人たちの善意に半ば押し出されるような形で最前列に着席しました。近すぎると見えづらいんだなというのは後で気づいたのですが。話の内容はもう覚えていませんが、テレビで観るような有名人の声や姿を間近で見ることの、これはわたしにとって初めての体験でした。

いまはインターネットで昔の映像が簡単に観られるから幸せですよね。亡くなられたと知って急にさみしくなって、わたしは鈴木健二アナの動画を探してみました。たくさん見つかるだろうと思いました。けれど意外にもYouTubeに3本しか見つかりませんでした。その中の一本は、紅白歌合戦の司会をしたときのエピソードをお話になられているものです。懐かしい声です。前年落ちた視聴率を挽回せよとの上層部の厳命に彼は悩みます。そして何らかヒントを得ようと若い歌手に意見を聞いて回ったといいます。その部分に、芸で生きる人、技で生きる人の心意気を見た気がしました。亡くなってもなお、わたしに知恵を授けてくれる『主任教授』。少々長くなりますが、その部分を引用してみたいと思います。

それで私ね、どういうふうにしたらいいかって迷った時に、沢田研二さんのところへ行ったのね。というのは、沢田研二さんが「勝手にしやがれ」っていう歌だったかな、帽子をぽーんと客席に向かって投げる。それから「TOKIO」っていう歌だったか、パラシュートみたいなの背負って出て来たんですよ。それでね、何でああいうね、帽子を投げたりとかパラシュートを背負うような演出をなさったんですかって聞いたらね、

それまでの自分は全ての人に好いてもらおうと、全ての人の好みに合うように歌ってきた。そしたら自分がどこいるのか分かんなくなりました。それでそれはやめてね、よし、自分のことを知っている人のためにだけ歌おう。って決心したら、ひとりでにああいう演出になりました…って言った。

それで私、眼鏡や衣装をとっかえひっかえする演出をする気になったんですよ。彼のその言葉を聞いて。自分のために聞いてくれる人のためだけに自分は歌おうと。誰にも彼にも良くってんじゃなくって、自分を知ってくれる人のためにだけやろうという。だから私は(紅白の本番)やってる最中にも、何千万人視聴者がいるかもしれないけれども、その中の一人ぐらいは、鈴木健二が一生懸命やってるぜって思ってくれる人が、全国に一人ぐらいはいるだろうと思ってね。片っぽじゃ、ばかばかしいなと思い、 片っぽじゃね、一人ぐらいいるだろうと思って。

そして58年の(紅白が)終わって、白組が優勝で沢田さんが金杯もらった。それで私、自分は間違えてなかったと思った。沢田さんの言葉で私はこうやって衣装や眼鏡をとっかえひっかえやったのは、誰か自分を知ってくれる人のためにだけやると、これは間違いなかったなって。そしたら沢田さんが金杯をもらうそのときに、後ろのほうで、

「金杯は鈴木さんにやってくれませんか!」

って叫んだ人がいる。北島(三郎)さんだった。ああ、一人だけいたよ。ここにと思った。一人だけ分かってくれる人がいるだろうと思ったら、北島さんがそうやって叫んでくれたんですよ。

「放送人の証言」154 鈴木健二

月並みな言葉ではありますが、亡くなってからわかるその人の価値というのは生前どれだけの人から何を集めたかではなく、どれだけの人に何を与えたかによるのではないか。そんな思いを新たにしたところです。

(了)