受け継がれる「でぶミルク」


家庭の味は何、と聞かれたときにわたしは決まって、「でぶミルク」と答える。


何それ、でぶミルクって、と大抵の人に驚かれるが、なんてことない、カルピスの牛乳割りである。それを我が家では、「でぶミルク」と呼んでいる。
これ以上いれたら喉がいがいがしちゃう、というギリギリを見極めて、コップにたっぷりカルピスを注いだら、そこに牛乳をとっとっと、とぽぽっ。2、3回軽く混ぜればでぶミルクの完成である。


実家では母方の祖母と暮らしていた。

小学校が夏休みの間、外に活発に出かけていくタイプの小学生ではなかったわたしは、もっぱら家で絵を描いたり、漫画を読んで過ごしていた。両親は共働きで家にはいなかったので、話し相手はいつも祖母だった。
祖母は毎日おやつを出してくれた。メニューはおせんべいだったり、親戚から送られてくる焼き菓子だったり、日によって色々だったが、特に暑い日には祖母がカルピスを牛乳でうんと濃く割ってくれた飲み物を出してくれた。キンキンに冷えたそれは、日ごろ薄い味付けの給食に慣れた小学生のわたしには、麻薬的に甘かった。口をつけるやついなや、コップは一瞬で空になってしまった。
「おかわり!」とわたしが言うと、祖母はしょうがないなと言いながら笑って、「乳製品は身体にいいからね、牛乳は骨を強くしてくれるから」と言い訳のように呟きながら2杯目を作ってくれた。
祖母は早くに夫であるわたしの祖父と死別し、女手ひとつで母と叔父の2人を育て上げた人である。花道の資格も持つ彼女はマナーに厳しく、世間体を気にする昔ながらの人だったので、わたしが思春期を迎えるころにはしょっちゅう衝突していた。それでも、祖母との思い出は、そのとびきり甘い、カルピスの牛乳割りなのである。


はじめは、でぶミルクなどという失礼なネーミングではなかった。確か、祖母は「濃いカルピス」か「特別なカルピス」と呼んでいたと思う。それを、でぶミルクと名付けたのは4つ上の兄だった。
「おばあちゃんこれ、甘すぎるよ。毎日飲んだら太っちゃう。おでぶさんの牛乳だもん」と言ったのがはじまりで、いつからか我が家ではカルピスの牛乳割りを、自然と「でぶミルク」と呼ぶようになった。


結婚し、夫と暮らすようになって初めての夏、わたしは夫にでぶミルクを作った。実家で祖母が作ってくれていたように、コップにカルピスをとっとっと。そこによく冷えた牛乳を、とぽぽぽっとぽ。2、3回混ぜたらできあがり。
当時は、ぎりぎり都内の、埼玉県にほど近いところに住んでいて、夏はエアコンを入れた部屋にいても無性に暑かった。南向きの、遮るものなく日差しが差し込む古いアパートの1階。蝉の音、近所の中学校から聞こえる体育の掛け声が、暑さを助長するようだった。「えーっ、乳製品を牛乳で割るの?味濃くない?」と疑心暗鬼な夫に、まあまあ試してみなよ、と差し出した1杯のでぶミルク。渋々コップを受け取り、一口飲むやいなや、「何これ、うまっ」と言って一気に飲み干した夫の喉仏。ごくごくっと喉の鳴る音が聞こえた。

それ以来、夏がくるたび夫は「でぶミルクの季節だなあ」と言って近所のスーパーでいそいそとカルピスを買い込んでいる。彼の中ですっかりでぶミルクは夏の風物詩であり、家庭の味になったようである。肉じゃがやらハンバーグやらカレーやら、気の利いた家庭の味は我が家にはまだないけれど、でぶミルクだって立派な家庭の味だよな、と思う。


わたしがでぶミルク、と声に出すとき、それは「でぶ」ミルクであって、決して「デブ」ミルクではない。
「でぶ」は字も丸っこくてなんだか可愛い気があるけれど、「デブ」はどことなく冷たい雰囲気がするから。
親しみと敬愛を込めて、「でぶミルク」。
今年の夏もお世話になります、でぶミルク。

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