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タバコと口紅(第七話)

第七話

家に上がると、男の母親は温かいコーヒーを私たちに出してくれた。
全員が椅子に座ってもすぐに会話は始まらなかった。
沈黙の中、時計の針の音だけが部屋に響く。時間は確かに進んでいる。けれど、男の時計だけは当時に遡っているのだろう。

「あ、私ちょっと外散歩してきます」
「いや、俺が」
男は私の腕を掴み、席を立った。

男との過去にあんなことがあって、それに見知らぬ女が目の前に一緒にいる。
本来なら門前払いも当然な状況なのに目の前にコーヒーがあるのは、私がこの世界を望んでしまったから。

「あの、覚えてます?さっき出ていった」
私は、感情をなくしても記憶は残っていることを確かめたかった。
「ええ、私の息子。見ないうちに大きくなってたわ」
「そうですか…。すみません。いきなり来てしまって。私は最近、息子さんにお会いして、家も近くて、それで…」
「彼女さんではないの?あの子、小さいころからあまり人と関わらない子だったから、そうだったら…」
「いえ、そこまでの関係ではなくて」
というか、もっと特別な関係。

当時の事件も覚えているのか、それも確かめたかったが、自分から切り出して良いものなのか。もし覚えていたとしても、本音を聞き出せないことはわかっている。
きっと男もそれをわかっていてここに来たはずだ。それでもここに来た意味を、私の役割を果たさなければならない。

「なんか、最近変な感覚なの」
男の母親は、突然つぶやいた。
「あの子、昔に弟をナイフで刺して、それで長い間刑務所にいたの…。あ、ごめんなさい、こんな話あなたにすることじゃないのに…まして初対面で…」
すると突然、どこかで感じたことのある感覚が蘇った。時計の音が遠のいていく。微かに男の母親の口元が動いているが見える。

「これは何?」
私は心の中でつぶやいた。
「あ、今の忘れてくださいね。もう昔のことだから…」
話は続いていたようだ。

「あの…今は、息子さんのことどう思ってますか?」
今なら本音が聞き出せそうな気がして、無意識に聴いていた。
それと同時に、私の胸に激痛が走ったのが分かった。呼吸がだんだん苦しくなってくる。
「何、これ…」

この世界では、母さんの想いを聞きだずことなんてできないと分かっていた。
それでも、あの事件以来、俺が刑務所にいた間何をしていたのか、面会に来なかったのは俺が憎かったからなのか、弟との関係はどうなっているのか、知りたかった。
そして、昔のように弟を三人で暮らしていた時に戻りたいと願ってしまった自分をどう思うのか、知りたかった。

家に戻ると女はソファーに横になっていた。
母さんが女の背中をさすっている。
「え、どうかしたの?」
俺はソファーに駆け寄った。
「突然、具合が悪くなったみないなの」
母さんは相変わらず冷静な表情だ。

「とりあえず、連れて帰るわ」
俺は女をおぶって実家を後にしようとした。
「その子の口紅、素敵ね」

微かに香るタバコの匂いと共に私は目を覚ました。
男は私をおぶって最寄り駅に行く途中だった。
「私…」
「目覚めた?大丈夫?母さんと何かあった?」
男のこんな心配そうな顔を初めてみた。
「ふっ」
思わず笑ってしまった。
「は?何笑ってんだよ」
男は私を下ろした。私に背を向けたままタバコに火をつけ、駅に向う。
そして私は口紅を引き直した。

帰りの電車の中も、私たちは何もじゃべらなかった。ただ、男は何かをずっと考えているように見えた。
そして、私はある決心をした。

最寄り駅まで帰って来た。
「じゃあ」
「うん」
私たちはそれだけ言って、それぞれの家に向かった。

家の扉を閉めた瞬間、私はその場にしゃがみ込んだ。
一変した世界が歪み始めた。

お風呂に入って、ベッドに入る。
やっと気持ちが落ち着いてきたのに眠れない。
「もう1時か…」
真夜中というのは分かっている…。
けれど気づけば私の足は男の部屋へ向かっていた。

男の部屋のドアの前、ノックをするだけなのにできない。
すると、突然ドアが開いた。
ほんの一瞬だけ目が合う。私たちにはその一瞬で十分だった。
そして男は私の腕を掴んで引き寄せ、きつく抱きしめた。
「どうしたら良いのか、わかんねえよ」そう言って、鼻を啜るのが分かった。

男も私と同じように、実家に行ってからずっと考えていたんだろう。
それは、今のこの世界で生きる人たちには無関係で、ちっぽけなことかもしれない。
でも唯一感情を共有できる私たちにとっては重要なこと。
私は泣けなかった。
ただ今は、愛しいと思ってしまった人とのこの時間を、この瞬間を大事にしたい。
私もきつく彼を抱きしめた。

一夜が明けてベッドの上。
私たちも感情を失ったかのように冷静だった。感情は閾値を超えて溢れ出すと、空っぽになってしまうのだろうか。

「また行こう、あなたの実家」
私が話を切り出すと、彼の表情が少し曇った。
そして、彼は私の手を握った。その手は温かく、少し震えていた。

「来週の日曜日、どう?」
数秒の沈黙の後、
「分かった」と彼は返事をした。

(第八話に続く)

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