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タバコと口紅(最終話)

最終話

日曜日の朝。
「快晴で良かった」
化粧室の鏡の前、今日塗る口紅の色は、彼が私に似合っていないと言ったあの色。

最寄り駅で待ち合わせ。
彼はタバコを片手に私を待っている。
すでに待ち合わせ時間は過ぎている。でも私は遠くから彼の姿を心に刻むことにした。

「お待たせ」
「おう」
彼はそう言って、タバコを吸い殻に捨てにいく。

彼は振り返って私の顔をみて、唇に目線を向ける。
「その口紅…まだ持ってたんだ」
「うん。でもこれも持ってる」
私はいつもの口紅をカバンから出して、彼に見せた。
彼の少し困惑した表情も、ムッとした表情も、不思議そうに見つめる表情も彼そのものであることは変わりない。私は、彼の全てを知りたいんだ。

「それ、貸して」
彼をそう言って、私から口紅を取り上げて自分のポケットにしまった。

電車に乗り込む。
いつもなら会話一つない状況が当たり前の私たち。
ただ今日だけは、目的地までの距離を感じたくないからか、ムッとした彼を和ませたかったのか、私は自分の話を話し始めた。

「私、自分で自分を俯瞰する瞬間があって、どうして今自分が楽しいと感じているのか、苦しいと感じているのか、あの人を憎んでいるのか…その理由を追いかければ追いかけるほど、思考のループにハマって、感情の渦に飲み込まれていくの。それがある閾値を超えるとね、急に消えたい、姿を消したい、そんなことを何度も考える…なんかさ、面倒くさい人間でしょ?私って」
彼の表情は変わらない。

「でも最近ね…それでもいいじゃんって思えてきたの。これが私なんだから仕方ないじゃんって。そう思えたのは、こんな私を理解してくれている人がいる、どこかに一人はいるんだって、感じることができたから…」
私は彼の目を見つめて微笑んだ。

結局、彼の実家に着くまで、彼は一言も喋らなかった。
「着いたね、お母様元気かな?前、突然気分が悪くなっちゃって、迷惑かけちゃったし」

すると突然彼はこっちを向いて、私の肩に両手を置く。
そして、今まで見たことのないほどまっすぐな目で私を見つめる。何かを私に伝えようと、唇が震えているのが分かった。

「何、どうしたの?お母様待ってるんじゃない?行きましょ」
「待って」
彼はそう言って、ポケットから口紅を取り出す。
そして私の頬に手を添えて、少し震えた右手で私の唇にそっと塗り始めた。

「ちゃんと塗れてる?」
私はクスッとと笑って問いかけた。
同時に涙が出てきそうになって、彼を抱き寄せて誤魔化した。
「その口紅、返してよ」
「やだ」

前と同じように、彼のお母さんは私たちにお茶を出してくれる。
でも少しだけ穏やかな表情に見えたのは私だけだろうか。

「今日は何しにきたの?」
少しの沈黙の後、彼は口を開いた。

「俺が誰かわかる?」
「ええ、大きくなったわね」
「お、弟は?今どこ?何してる?」
「ああ、もう働いているわ。一人で暮らしてるわ」
弟さんが元気て暮らしていることを知って、彼はホッとした表情を見せた。

「俺、刑務所にいたんだ。その、あの…」
彼が言葉に詰まって躊躇していると、彼の母親は淡々と続きを話し始めた。
「あなたがあなたの弟を台所の包丁で刺したのよね。それで脇腹から見たことがないくらい血が流れたの。次は私の番かもしれないと思ったわ。でもあなたは、私を刺さなかった。その後すぐに救急車を呼んで、私も一緒に病院へ向かったの。その後、近所の方が警察を呼んで、あなたは…」
「で、母さんはどう思った?俺をどう思ってた?俺が知りたいのはそんなことじゃなくて」
彼の呼吸が少し荒くなった。私はそっと彼の右手を握る。

「怒っているの?」
「違う。だから…俺はさ、ただ何でもできる弟が憎くて、母さんは弟だけを見てて、俺はそれに嫉妬して…」

こういう状況になることは分かっていた。感情を失ったこの世界では、何も心に訴えることはできない。
でも私には、彼の右手の震えと彼の感情の震えが拮抗しているのが痛いほど伝わってくる。
そして、キッチンの方を気にする彼の目線も確認できた。

憎しみと悲しみと愛しさと…感情が入り混じって今にも破裂してしまいそうな彼を、私はもう見てはいられなかった。
私は彼の右手を離して、キッチンヘと向かった。
そして棚の扉を開いて包丁に手を伸ばした。

ああ、この感覚…前にもあったな、何でもできてしまいそうなこの感覚…。

彼はすぐに席を立ち、私の手を掴んで包丁を奪おうとする。
包丁は一瞬にして私の心臓を射止めた。

「やっと役に立てた。これが私が生きる理由」
一瞬の出来事が一生を変えた。

一気に全身の力が抜けていくのが分かった。彼は必死の形相で叫んでいる。
「おい、しっかりしろ!何してんだよ!」

だんだん目の前が暗くなっていく。こんな時でも私の最後の記憶はあの匂いだった。
「タバコ臭い…ああ、元の世界に戻ったんだ」

目を覚ますと、俺は実家のベッドだった。
とても鮮明で長い夢を見ていたのだろうか。
何事もなかったかのように元の世界に戻っていた。ただ、ここに彼女の姿はない。

キッチンへ行くと、母親が朝食の準備をしている。
「あ、起きた?おはよう。朝食もうすぐできるわよ」
懐かしい、あの頃のままだ。本当に夢だったのか…

「母さん…。あのさ、昨日誰か来てなかった?」
「何?突然。昨日は誰も来てないわよ。今日は久々に晴れるみたいよ」
テレビに目を向けると、お天気お姉さんが笑顔で天気予報を伝えている。
「あ、いた…」


感情は人を制御する。
目に見えないくせに、誰かを傷つけたり、人を狂わせたり、時に人を幸せにしたり…そして、モノクロの世界に無限の色を付ける。
他人には決して見ることが出来ない色。人はそれを見たくて知りたくて、見たくなくて知りたくなくて、ゆえに人は人を愛し、人を憎む。だからこの世は美しくて、面白い。

(終わり)

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