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タバコと口紅(第八話)

第八話

次の日曜日までの1週間、私たちは毎晩いつもの公園でビールとタバコを片手に何でもない会話を繰り返していた。

「ねえ、初めて私たちが出会った場所、あの無人駅があるところに行ってみない?」
「え、何で?」
「何となく…あそこで私たちが出会っていなければ、今頃どうなってたんだろうって思って…」
「後悔してる?俺と会ったこと」
私はただ笑って返事をした。

土曜日の朝。
テレビの中のお天気お姉さんは晴れの予報を伝えてくれている。

私は一人で電車に乗り、あの日と同じ路線であの場所に向かった。
あの日と違うところと言えば、舞台セットが透き通った澱みのない色に変わったことだ。
「確かこの駅で彼は乗ってきた」
目を閉じるとあの日のことが鮮明に蘇ってくる。今思えば、ここで彼に出会ったことは決して偶然ではなかったのだろう。

毎日当たり前のように当たり前の時間に起きて、天気予報を確認して、電車に乗って出勤して、人間のカラフルな感情とどす黒い感情の渦に飲み込まれないように必死に生きていく。
そんな日常が生きづらくて、感情のない世界でいきたいと願い、それが叶った今。また元の世界に戻りたいと思ってしまった自分が憎くてダサくて、面倒くさい。ましてや、人へ愛情まで抱いてしまったのだから…。

結局、人間は自分勝手な生き物だ。自分というテリトリーに招待できるものとそうでないものを自分の物差しで計り、そこを乱すものを排除する。
でも、いざ一人ぼっちになるとテリトリーを広げて、近くにいる人を指で突っついて、自分の存在に気づいてもらおうとする。
何もかもが手に入れられるこの時代、世の中が便利になればなるほど、人と関わらずに生きていくのは簡単だ、人間が感情というものを持っていなければ。
でも、そうはいかないのが地球という場所に存在する人間の宿命なのかもしれない。
誰かが感情の出力値をいい感じに自動調整してくれれば良いのに…。

思考のおしゃべりをしていると彼を初めて会話を交わしたあの無人駅に着いた。
駅前から続く砂利道。不審者だと思っていた男は今では特別な存在になっている。

道端にポツンとある喫茶店。
入り口のカラン、カランというベル音も懐かしい。あの時の店員さんが今回も接客してくれている。
「ご注文は…あ、またいらっしゃったんですね。ありがとうございます」
あの時初めて行った喫茶店で、そんなに会話もしていないのに覚えられていたことに驚いた。
「えっ、」
「あの時はお二人でしたよね?」
「そうですね」
「今日はお一人なんですね。あ、すみません。ご注文…」
「アイスコーヒーで」
なんか変な感覚だった。顔は無表情に近い…だけど私の心に何かが訴えてくる感じ。

「また来た。何これ…」
彼の実家に行って、彼の母親と話していた時と同じ感覚。苦しい…。

「お待たせしました。アイスコーヒー…。お客様、どうかされましたか?大丈夫ですか?」
店員さんの表情が少し変だ。焦りと緊張と震えた表情。

「だ、大丈夫です。すみません」
「は、はい。ではごゆっくり」
とりあえず深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。境界線が徐々になくなっていくような感覚に、希望と焦りと不安が入り混じる。
なぜかこのコーヒーを飲んでしまったらいけない気がした。

「もう帰ろう」
私は一口も口をつけずに喫茶店を後にした。

来た道を引き返して駅で電車を待っていると、あの時の高校生の男の子がやってきた。
スマホのバイブに気づいてポケットから取り出す。
友達からか彼女からか、家族からかは分からないが、男の子はクスッと笑って、返事を打っている。スマホをポケットに入れて、顔を上げると私の方に目線を向けた。

「お姉さん、前もここに座ってたよね?」
「えっ、うん。来たことあるかな」
「一人?」
「そうだけど…」

「この前さ、これくらいの身長のお兄さんが多分お姉さんのことを探してたよ。あの後ちゃんと会えた?」
さっきと同じ、この感覚。でも、この胸の苦しさ、息苦しさに慣れて来ている自分がいた。

「うん、会えたよ。私にとって、とても大切な人なの」
「へーそっか、良かった」
男の子はそう言って私に微笑みかけた。

帰宅途中、いつも立ち寄る公園を目の前。
ここ数日の出来事が走馬灯のように駆け巡る。
今日はビールを買う気になれなかった。ベンチに腰を下ろして周りを見渡す。
そこには、「じゃあね」と大きな声で友達に別れをつげる子供たちの姿が会った。
すると一人の男の子が私の元へ走ってきた。

「はい、あげる」
と私に溶けかけのチョコレートを差し出した。
「あ、ありがとう」
「もう泣かないでね」
その言葉に、自分が涙ぐんでいたことに気づいた。

まだ日が暮れていないこの時間に、彼は来ないことはわかっていた。別に会えることを期待していたわけではない。
むしろ、今会ってしまえば何かを悟られそうな気がして怖かった。
「もう明日か…今日は早く帰ろう」

帰宅後、私はデスクのパソコンに向かってここ数日の出来事を書き留めた。
記憶が鮮明なうちに。
そして、何が起きても大丈夫なように。

ベッド入ってからも、明日は一体どんな表情で、どんな感情で彼に会うのが正解なのだろうと、ずっと考えていた。答えは見つからなくても、時間は刻々と過ぎていく。

朝日が昇る。
カーテンから差し込む光が、私に進むべき道を照らし、手招きしているようだ。

(最終話へ続く)

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