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対話と連帯の物語:バットマンvsスーパーマンの話をしよう

ことあるごとに”toxicなファンダム”が吹き上がったり、Netflixのプロフィールアイコンに御尊顔が追加されたりとなにかと話題に事欠かないザック・スナイダー監督。

彼のヴィジュアリストとしての側面や、その卓越したアクション表現はすでに多くのファンに言及されているところだと思いますが、今回はあえて! 違う話をします。

今回のテーマは、バットマンvsスーパーマンを貫く対話と連帯のメッセージについてです。私がこの映画をこよなく愛するのは、ヴィジュアルの美しさはもちろんのこと、このテーマに共感するからでもあります。

以下では、「対話」、そしてそれを不可能にする分断というテーマを通じて本作を解釈していきます。ネタバレ全開です。内容を知りたくない方はご注意ください。

念のため断っておきますが、以下は個人の解釈の一つであり、これが絶対的な”正しい読み方”であるとは考えていません。

この記事をかいたひと:水銀(@mercunny11)
2016年からずっとバットマンvsスーパーマンを擦り続けている。正義の味方が設備破壊ファイトを行なっていると心の中のワイプに爆走するウェインさんが出てくる後遺症に悩まされている。


バットマンとスーパーマンはなぜ戦わなくてはならなかったのか?

スーパーマンが、悪に染まる──

当時喧伝されていたこんな感じの理由でないことは、BvSをご覧になった皆さんはすでにお分かりのことかと思います。
どちらかといえば悪に染まっていたのはバットマンの方だし。

二人が戦うことになったのには大部分レックス・ルーサーの策略が関係しています(この辺りはアルティメットエディションを見るとよくわかります)。
ただし、もっとも根本的な理由を挙げるなら、それはブルースがスーパマンを人間扱いしなかったからではないでしょうか。

BvS冒頭、崩壊しつつある街を走り、結局自社ビルの倒壊をなすすべなく見守ったブルースは、なんとか救った孤児を抱きしめながら、空に浮かぶスーパーマン(ルビ:すべての元凶)を目にすることになります。この時ブルースが見ているのは、「災厄をもたらした宇宙人」、あるいは「災厄そのもの」であると言っても良いかもしれません。

この出来事がブルースにどんな影響を及ぼしたかといえば、これでしょう。

神の落とした雷

空から男が来た
神が雷を落とし
罪なき人々が死んだ
それが始まりです
熱狂 怒り 言いしれぬ無力感
そして善人が──冷酷に

バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生 日本語字幕版

“正義の焼き印”を咎めるアルフレッドの口から語られたこの言葉は、ブルースの心境の変化をもっとも端的に表しています。

BvSのブルースの戦闘スタイルはかなり荒く、今のどう考えても殺してるよね? というシーンはたくさんあります。しかし、「押されたものは牢獄内で結果的に死刑となる」焼印、間接的な殺人をこのように咎められるのであれば、意図的な殺しはしないというラインはギリギリ守っていたんじゃないでしょうか(と筆者は思っています)。

にもかかわらず、ブルースはスーパーマンを殺すと決意します。それは、巻き添えになってモブ戦闘員が死ぬとかそういう次元の話ではありません。明確に、意志をもって、他者を殺害する。それは、バットマンというキャラクターの根底にあるものを揺るがす作劇です。

ではなぜブルースはスーパーマンを殺すことを正当化できるのか? それはやはり、スーパーマンのこと人間扱いしていないからではないでしょうか。

Do You Bleed?

爆走! バットモービルを片足で止められ、ゴッサムでの自警活動を咎められたブルースによるこのセリフ。

「血は赤いのか? 赤く染めてやる」
“Do you bleed? You will.”

字幕と原語にややニュアンスの違いがあるので念のため併記しましたが、どちらのセリフも本質は変わりません。

自分(人間)とスーパーマンを区別すること。違う生き物だと主張すること。

字幕の表現は公開当時やや物議を醸したような記憶がありますが、私は良い表現だと思っています。日本語でも「青い血が流れている」という比喩で、「人間ではないもの」「人間とは思えないほど悪い人」を示したりしますものね。

ハンター

こうした意識は対決直前においても現れます。

…(前略)
俺の遺産だ
…(中略)
(先祖は)ハンターだった

スーパーマンとの決戦をアルフレッドに再度咎められたブルースは、こう言い残して去ります。

去るなよ。

すごいこと言い出しましたね。先祖はハンターだった? 父よりも長く生き、これ以上生にしがみつく気もない。ここで死んでも構わない、奴を狩ることが俺の遺産だ…….と、そういうわけですよね。すげ〜〜〜。非人間扱いが止まりません。

相手をとことん非人間化しているから、ブルースが対話の要請に応えようはずもありません。人質に取られているマーサのことを伝えようとしたクラークが「聞いてくれ」と歩み寄っても、ニヤリと笑みを浮かべてトラップを発動するばかり。流石のスーパーマンも対話を諦め、戦闘態勢を取らざるを得ません。

Men are Brave

もっともわかりやすいのは、二人の対決が始まってすぐのこのセリフでしょうか。スーパーマンにお手製クリプトナイトガス弾を喰らわせたブルースは、苦しむスーパーマンに語り掛けます。

Breathe it in.(吸い込め)
That’s fear.(死の恐怖に──)
You’re not brave.(怯えるがいい)
Men are brave.(人間の勝ちだ)

ここでは原語の方が意図がつかみやすいので、このように表記します。
このセリフに現れているのは、「スーパーマンは死の恐怖など知らないのだろう」という勝手な思い込み、そして何より人間とスーパーマンの間に線を引く態度です。

ブルースにとって“スーパーマン”は対話不可能なエイリアンであり、狩るべき獲物であり、正すべきカオスなのです。

They taught me the world only make sense if you force it to.
(混沌としたこの世界は正さねばならない)

これはダークナイト・リターンズ(コミック)からの引用でもありますが、やはりここまで執拗に語られてきたスーパーマンを非人間化する姿勢の反復でもあるでしょう。

排除を正当化する論理

もちろん、これらがすべて本心かといえばそうではないかもしれません。どちらかといえばスーパーマンを殺すことを正当化するために作り出した論理であり、自らにも言い聞かせているという側面が大きいとも思います。

ですがむしろ大事なのは、スーパーマンを殺すことを正当化するためにはこうした論理が必要だったという点です。

ある人を非人間化することは、彼にとことんまで人格を認めないことだと思います。そうすれば、遠慮なく酷いことができる。

ブルースは知らない。スーパーマンが、クラーク・ケントという一人の人間であることを。父親を竜巻で亡くし、恋人を愛し、母を想い、ペンで世界をより良くしようとする一人の青年であることを知らない。

そんなはずがあるか?

世界一の探偵であるはずのブルース・ウェインが、そんな簡単なことも調べられないなんてことがあるでしょうか?

ありえません。それでも知らなかったのだとしたら、考慮しなかったのだとしたら、それは見ないようにしようと努めたからに他ならないのではと思っています。

殺すべき相手が人間であることを、一つの人格を持つ存在であることを自覚してしまえば、きっと決心は鈍るでしょう。スーパーマンを「宇宙人」扱いして人間から切り離すことは、ブルースにとって必要な作業だったのではないでしょうか。

悲しいことですが、現実世界においてもこの論理はよく見られますね。というよりも、2016年当時世界を席巻していた分断と排除の論理がこの映画にも色濃く反映されていると捉える方が自然でしょうか。

2016年はBrexitの国民投票の年であり、翌年にはトランプ大統領が当選します。そういう時代でした。相手と自分の違いを強調し、排除を正当化する。少し歴史を振り返るだけでいくらでも例が挙げられそうです。(今現在の世界が当時よりマシだ、というつもりはさらさらありません。言えるはずもありません。ただ映画の持つ時代性を明らかにするために言及しています)

ふたりの対決にこうした意味が持たされている以上、単純な暴力で決着をつけてしまうわけにはいきません。二人の対決を終わらせるのは……

マーサ! なぜその名を知っている?!

対決の終わり:Martha. Why did you say that name?

悪名高い「マーサ!」のシーンですが、初めに言わせてください。

母親の名前が一緒だったから仲良くなったわけではありません!!!!

悪名高いのは私も知っています、当時散々いじられたのをいまだに根に持っています、でも違うんです! 違うよね、ザック…..?

真実はザックのみぞ知るですが、前述したような読み方をしている場合には、このシーンの持つ意味は明らかです。

それは、ブルースから見たスーパーマンに人間性を回復すること。
スーパーマンは人格をもった1人の存在であるとブルースに突きつけること。

このあたりに集約されるのではないでしょうか。

前提条件:ガワ割れ

本質的な議論に映る前に、セッティングを確認しましょう。

二人の対決はいよいよ終盤。狡猾さと事前準備で勝るバットマンが徐々にスーパーマンを追い詰めていきます。しかしこのときすでにブルースも満身創痍。

アーマードスーツのメットは砕け、顔の半分が露出しています。変声機も壊れており、ブルースの素の声とボイチェンされたバットマンの声が二重に聞こえる状態です。

つまり、この場面においてブルース・ウェインはかなりである…..精神的防御力の低い状態であると言えるのではないでしょうか。

この局面におけるブルースのセリフは、限りなく本心に近いと考えて良い。そういう意図の演出だと筆者は捉えています。

路地裏の子供

「マーサを救え」息も絶え絶えのスーパーマンにそう請われたブルースは、振りかぶった槍を止める。怒りに満たされていた瞳に動揺が浮かび、槍の先が彷徨う。
「なぜその名を知っている?!」動揺は激昂に姿を変え、ブルースは繰り返し問います。
「それは彼の母親の名前!」
答えられないスーパーマンに変わり、現れたロイスがそう説明する。

瞬間流れ出す、美しいピアノ……Beautiful Lie の旋律が帰ってきて、脳裏に浮かぶのはあの夜のこと。理不尽に両親が奪われたあの夜の光景です。

一度重なってしまえば、気づかずにはいられないでしょう。

今夜、この場における理不尽な銃弾は自分であると。
自分がしようとしているのは狩りでも聖戦でもなく、母を思う一人の青年の命を奪うことであると。

徹底して「人間ではない」と言い聞かせることで正当化したスーパーマンの殺害は、ここにきてその土台をぐらぐらと崩すことになります。スーパーマン、クラーク・ケントには母がいて、父がいて、恋人がいる。一人の人間なのだと気付かされてしまう。

剥き出しの逡巡。そこにいるのは老獪なクライムファイターではなく、8歳の子どもです。

結果、ブルースは槍を手放します。代わりに与えられたのは、「マーサ」を救う機会。ぎりぎり一線を越えずに踏みとどまったブルースへの褒美のようですらあります。

もちろん、「マーサ」を救ったところでブルースの母が帰ってくるわけではない。ブルースにだってそんなことはわかっているはずです。しかし、この映画の冒頭5分で描かれたオリジン──弾けた真珠の球が地下のブルースの元に落ち、幼いブルースが蝙蝠として浮かび上がる──に照らせば、マーサを救うことはバットマンのヒーローとしてのオリジンに立ち返ることと同義です。

一度は冷酷に変じた善人が、そのヒーロー性を取り戻す。そのきっかけは、相手が自分と同じ人格の一つだと知ることでした。相手を対等な人間だと捉えるから、対話の余地が生まれます。スーパーマンからしてみればバットマンの心変わりは謎めいていたかもしれませんが、ともかく二人のヒーローはそれぞれルーサーの対処とマーサの救出に向けて動き出すことができるようになりました。

今夜はマーサを死なせない」。もちろんブルースの母ではありません。それでも、マーサを、子を思う一人の母親を助ける機会を得たことは、ブルースにとってどれほど価値のあることでしょうか。

Must There Be a Superman?:お前が決めることではない。

スーパーマンに人格を認めないのは、何もブルースだけではありません。アメリカ中、世界中が、スーパーマンのことを「制御不能で強大な力」だと捉え、その是非について議論します。

スーパーマンが死者の日の火災による被害者を救出した後、画面はニュース映像に切り替わります。あるものはスーパーマンを「救世主」と呼び、またあるものは国際法での規制を叫ぶ。「偉大な人物は破滅の道へ人類を導く」だの「スーパーマンが現れたことで人類は宇宙における存在意義を問われている」だの、すごい言いようです。

やがて論争は行く所まで行き着きます。

──「何が言いたいのです? 彼がいなければいいと?(Must There Be a Superman?)」
「彼は いるわ(There is.)」

バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生 日本語字幕版

フィンチ議員のこのセリフの後、画面は物憂げな顔のクラークを映し出します。

このシーンは本編を通してかなり示唆的です。

先ほどまで見てきたように、本作におけるスーパーマンは、その人間性を顧みられることがほとんどないと言っていいでしょう。スーパーマンのシークレットアイデンティティを理解し、クラーク・ケントのことを考えてくれるのはマーサとロイス(それから亡き父)だけです。

このときのフィンチ議員の言葉の意味は、「彼は実際に存在するのだから、存在することを前提に議論を勧めなければならない」であったのかもしれません。しかし、この言葉を聴く時、私はいつも実在する人間に対して存在するべきかそうでないかを議論することがいかに暴力的であるかということを考えます。

人格を持った存在に対し、その是非を問い、存在を許容できるような在り方に矯正しようとすることは、本来とても攻撃的なことだと思います。
にもかかわらず、大多数の安心のために、少数者にその在り方を無視して規範に適応することを望むのは現代社会でもよく見る光景であり、このMust there be a Superman? のシークエンスは非常に象徴的です。

公聴会の爆破:対話の場を破壊するヴィラン

さて、本noteでは繰り返し、本作を貫く一つのテーマ「対話」についてまとめてきましたが、このように主張するのにはもう一つ根拠があります。
それは、本作の悪役は対話の場を破壊する存在であるということです。

本作のヴィラン、レックス・ルーサー・Jrは、クリプトナイトの輸入をめぐってフィンチ議員と対立しています。また、フィンチ議員は、冒頭で発生した砂漠の事件の影響で高まったスーパーマン排除の世論を受け、公聴会を開くこととなります。

この議会におけるフィンチ議員のセリフは、本作における「対話」を体現していると考えています。

民主主義とは、対話を重ね、お互いの同意のもとに行動すること

対話を重ね、お互いの同意のもとに行動すること。これは、スーパーマンを一方的に敵視し、非人間化して対決にまで持ち込んだブルースの態度とは完全に一線を画しています。

また、さらに直接的には「善とは民主主義においては対話であり、独断ではありません」とも発言しています。

さて、そのような思想のフィンチ議員によって開かれた公聴会はどうなったかというと……


おばあちゃんのピーチティー

レックス・ルーサーの手によって爆破されます。アメリカで一番古い嘘は? 力は罪じゃない

これはまさに、対話の場の破壊であるととって良いでしょう。スーパーマンは人類の前に姿を現し、自らにかけられた誤解を解消するつもりでいました。しかし公聴会は爆破され、誰一人救えず、スーパーマンへのネガティブな視線はさらに増幅することになります。

また、レックス・ルーサーはまた別の対話の機会も潰していますね。

YOU LET YOUR FAMILY DIE!

ブルース・ウェイン(ウェイン社が)メトロポリスでの災害の被害者であるウォレス・キーフに送っていた見舞金は、赤いインクの不気味な文字付きで送り返されていました。結局メトロポリスでの惨事から一度もウォレス・キーフは見舞金を受け取ることはなかったのですね……。

「二年をかけて奴の怒りは最高潮に!」とはしゃぐあたりのルーサーのセリフから、これも彼の策略であると考えて良いでしょう。ブルースとウォレスの間で成立するはずだった繋がりを完全にぶち壊した形になります。

また、細かい仕草ですが、彼は出資者とのやり取りを口に菓子を突っ込んで無理やり留めたり、フィンチ議員との会話でも迂遠な言い回しを好んだりと、とにかく対話を遮り、正対しない態度をとります。

ヴィランというものは、作品における悪を体現し、ヒーローたちに立ちはだかるという点で、作品全体の読解に関わってくるものでしょう。

こうしたヴィランの造形からも、本作のテーマが読み取れるのではないでしょうか。

夜明け:Men are still good

こうしてみると、本作のブルースはかなりヴィラン的な立ち回りをしていますし、彼の心情次第ではスーパーマンを殺していた可能性さえあります。

アルフレッドが嗜めるように、かつて善人だった男は20年間悪意に晒され続け、人の善良さを信じることなどできなくなり、スーパーマンの殺害も辞さない冷酷なヴィジランテに変わってしまった。

私が何よりも尊ぶのは、そんなブルースが本作のラストでは再び希望を抱けるようになったということです。

ブルースは生きている間にクラークを失望させた。クラーク自身を「善人ではいられない」という境地に追いやってしまった。それでも、死後までも彼を裏切りたくないと語るブルースは、ダイアナに協力を求めます。

それは、レックス・ルーサーのファイルで見た超人たちを集めること。自分たちは団結しなければならないのだと口にします。

そんなブルースに、ダイアナは自身の経験を話します。彼女は百年前、人類と距離を置いた。彼女の世界に対する見方は、かなり厳しいものです。

人類が世界を変えてしまった。団結することが不可能な場所に。百年前という時期を考えれば、何が彼女に諦観を抱かせたのかは明白でしょう。そしてこの諦観は、「ゴッサムでこの二十年、約束は守られたか? 善人は善人のままか」と言っていたブルースと同根のものであるように感じます。世界の悪辣な側面を目の当たりにし、人間同士がともに立つことができるなど、到底思えはしなくなっている。

しかし、今のブルースは違います。スーパーマンと関わり、“マーサ”を救うことを通じて自己を回復したブルースは、希望を持っています。

Men are still good. (まだ間に合う)
We fight. We kill.  (戦い 殺し合い)
We betray one another. (そして裏切り)
But we can rebuild. (だが やり直せる)
We can do better.(希望の世界を)
We will. (我々が)
We have to. (築くんだ)

かっこがきは日本語字幕

ポストクレジットシーンを除いて、映画はこのセリフで閉じます。スーパーマンの記念碑に人々が灯火を掲げ、彼の映像に被さるようなブルースのこのセリフは、まさしくクラークがブルースにもたらした感慨です。

現代の世界では団結することは難しい。本当に難しいのです。ブルース自身が、そしてルーサーが示し続けたように、いくらでも相手と自分の間に線を引くことができてしまうし、線の向こう側になら酷いこともできてしまえる。それでもブルースは、人々と連帯することを選んだ。超人たちと団結し、世界を守ることを選んだ。映画冒頭のブルースからは考えられないほど、今のブルースは人間の善性を信じている

後にジャスティスリーグとなる面々を集めるというだけでなく、ブルースが人の善性を信じ、ともに生きることを選んだということそのものが“Dawn of Justice”なのだと私は思います。

全ての映画にメッセージ性やテーマ性を見出すことが正しいとは思いませんし、私は教訓を得るためだけに映画を見ているわけでもありません。

ただ私は、この映画を見るたび、大いに分断され、悪意に満ちた世界に生きる我々にも希望がある。より良い世界を生きるためにやれることがあるし、努力しなければならないと、そんなふうに思えるのです。

この映画を好きな理由は他にもあります。アクションシーンの格好良さも、音響の素晴らしさも、このnoteでは触れられなかった項目がたくさんたくさん、本当にたくさんあります。それでも、自分の好きな映画がこのように前向きなメッセージを発してくれていることが、私には何よりも喜ばしいのです。

バットマンvsスーパーマンは、日本公開から今日でちょうど8周年です。ずっと愛し続けた作品を、今夜はもう一度見返そうと思います。

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