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質問箱への回答⑱『意識レベルの浮き沈み』『意識レベルを向上させる意欲的な態度』

意識レベルについてご質問をいただきました。いつもありがとうございます🙂 質問の内容はこちらです。

今回はお答えするべきポイントが複数ありますので、その都度引用しながらお答えしたいと思います。そのため、回答は最初から note に書かせていただき、質問箱にはこの記事へのリンクを回答という形で掲載させていただきますね。

さて、ご質問は「意識レベルの浮き沈みと、意識レベルを向上させる意欲的な態度について」というように要約できるかと思いました。それでは最初からみていきましょう。

意識レベル200未満に曝されない方が望ましいと基本は思うのですが、なんらかの避けられない状況で(自分が創造しているのかもしれませんが笑)、意識レベル200未満に曝され、一時的に通常の自分の意識レベルより、かなり下がったとします。

その後、200未満の体験又は人物が離れていき、その後、飛躍的に意識レベルが上昇することもあるのではないでしょうか(個人的に体験したと思われます)。

だとしたら、葛藤やカルマが少し解消されたからなのでしょうか?

例を出して考えてみましょう。

意識レベル350の男性がいます。この人に意識レベル175の女性のパートナーができるとします。一般的な傾向としては350の人物が日常を送っている現実に175の人物が介入してくることは、そんなにありふれたことではありません。350と175では相当に開きがあるからですね。しかし、滅多と起こらないわけでもありません。例えばこんな事例です。

350の男性をホワイトな上場企業でそれなりのリーダーシップを発揮している人だと想定しましょう。職業と意識レベルの関係について固定的な見方を提示することはなるべく避けたいのですが、ここではあくまで一例として話します。また、この人物は普段は品行方正で、幸せな家庭も持っていました。

この人物があるとき得意先の接待のため、とある夜の店に出かけることを余儀なくされました。この人はこういった接待をまったく好まないのですが、上得意である顧客がそういうお店が大好きな人なので、つきあいで仕方なく出かけていきます。そこでたまたま彼の隣に座った女性が、意識レベル175でした。本来の彼の意識レベルを考えるとその女性とはまったく話も気も合わないはずなのに、お酒の勢いもあって魔が差したのでしょうか、どういうわけか意気投合してしまいます。結果、細かい経緯は省略しますがこの男性と女性は不倫の関係になってしまいました。

とまあ、こういうストーリーで考えてみると、決してありえないことではないことが分かると思います。こういうことが起こるのは、それがこの男性のカルマだからですね。ついでに述べるなら、女性にとってもこれはもちろんカルマです。この関係が不倫でなかったなら、彼女にとってこれは自身の意識レベルが向上する機会であったはずですが、そうではないところがカルマのカルマたるところです。なお、すべての人のすべての現実は、その人の意識が創造していますから、カルマやプログラムといったものも自身による創造の結果ではあります。

さて、ご質問に戻りますが、この男性が175の女性と関係を持ったことによって意識レベルがどれくらい下がるかは一概には言えません。が、彼が200未満の領域にまで転落してしまうかというと、少なくとも不倫が成立しただけでそうなるケースは少ないのではないかと思われます。しかし、これは男性のカルマの中身によるため、そうなってしまうこともありえます。このケースでいえば、男性がこのあと不倫を家族に告白し謝罪し、その謝罪が家族に受け入れられてやり直せるのだとしたら、彼の意識レベルの低下は比較的小さなもので済むでしょうし、なんなら将来的にはこの経験から学びを得て、360とか380とかいったレベル(あるいはそれ以上)にまで向上できるかもしれません。これはカルマが解消あるいは浄化されたパターンですね。

逆に、家族と縁を切って、不倫相手の女性と一緒になる決断をした場合、この男性は女性と同じ175近辺のレベルにまで転落してしまうかもしれません。その可能性は高そうです。こちらはカルマを克服できなかったパターンですね。あくまでこれは例なので必ずしもそうなるとは言えませんが、カルマの法則を分かりやすくお伝えするという意味では、こういう感じになるかと思います。

「意識のフィールドの"ダークサイド(影の側面)"を占めるフォースとの対決もあります。」とのことですが、これは200未満の意識レベルに触れることになるという意味であれば、対決することで意識レベルの向上する機会になりうることもあるのかと思いました。

これはこの間の記事で紹介した「 I <わたし> 真実と主観性」からの引用文ですね。このときの記事で引用した他の箇所には「意識レベルの上昇には反作用が伴う」という意味のことが書かれていましたが覚えておられますか。

すなわち、意識レベルのどの領域においても、そこから飛躍上昇する際には、それを邪魔する力が働くのです。そのような力がもし存在しないのであれば、誰しもが悟りの境地へと容易にたどり着くことになりますね。「対決」とはこの反作用(としてのフォース)との対決のことを指しているのですが、それが意味しているのは、フォースと対決することが意識レベルを上昇させる機会になるのではなく、意識レベルを上昇させるためには例外なくフォースと対決する必要があるということです。

ただ、この引用文において博士が「対決」と呼んでいる事例はその中でも極端なものであるようです。それが悪魔的なエネルギーによる憑依やそのエネルギーとの直接的な対決(イエス・キリストやブッダが経験したもの)です。これらは往々にしてフォースの勝利に終わります。憑依されている時点で敗色濃厚なのですが、イエス・キリストやブッダに準じるレベルにまで到達した数多くの聖者たちまでもが過去、この対決に敗れてきています。こういう対決を経験する人はごくごくごくごく稀ではありますが参考までにお伝えすると、この対決に勝利する唯一の方法は、「悪魔のどんな誘いにも乗らないこと」です。悪魔はありとあらゆる力を与えると約束してきますが、すべての力の源は自分自身の内側にしかありません。このことを弁えておけば、あとは勇気だけが試されるでしょう。

上記の内容と関係性があるかは分かりませんが、改訂版パワーかフォース化の302pに意識レベルを向上させるには

「意識を容易に上方へと移動させるもっとも重要な要素は、意欲的な態度です。新しい仮説が可能であるかどうか、新しい評価を下すための手段として、心は開きます。変化のための動機は、人間のあり方の限りない側面と同じくらいいくつもありますが、心が謎や矛盾に挑戦するとき、大抵は自発的に生じるものであると理解されています。実際にある特定の訓練(禅など)では、意識の飛躍を巧妙に行うために、故意にそういった行き詰まりを作ります」

と記載されています。

こちらは引用されていた一節から省略されていた文章をわたしの方で追加させていただきました。

ここでいう意欲的な態度とは、そのまんまではありますが「意識を向上させたいと願う意欲的な態度」のことです。一般的な話をすると、意識のスケールの概念を知っている人々は決して多くありません。しかしこの概念を知らない人々においても、自発的に意識レベルを高めようという意欲をもち、かつそれに成功している人は少なくないです。

意識レベルの代表的な数値には、125(欲望)、150(怒り)、175(プライド)、200(勇気)、250(中立)、310(意欲)、350(受容)、500(愛)、540(喜び)、600(平和)、700-(悟り)というように、それぞれの領域を象徴する概念があります。このうち、540の「喜び」まではそれがその意識レベルにいる人々の動機を表しています

ここでいう動機とは、その人の人生を駆動しているエンジンのようなものと言えます。125の人は欲望が人生を駆動しています。200の人は勇気で人生を切り開いていきます。500の人は愛が生きる原動力ですし、世界と関わる理由が愛になります。

600を超えるともはや個人としての動機はなくなります。したがって、平和や悟りというのは動機ではなく、いうなれば状態を表していると言えるでしょう。

このように540以下(正確には599以下)のすべての意識レベルにおいて動機は内在しているのですが、200未満のフォースの領域の動機は意識レベルを高めることには繋がりません。しかし200の勇気以上の動機は、基本的に意識レベルを向上させるための浮力として働くでしょう。

さて、ここまでは動機の原則についてお話しましたが、ご質問で引用されている箇所でいうところの「変化のための動機」についていえば、これは意識レベルを上昇させたいという明確な意志のことになります。つまり、これは探求者の動機といってよいでしょう。意識レベルを上昇させるためには、まずなによりもそのことを強く願い、そしてそれを達成してやるぞという意欲的な態度が重要であり、なおかつこの態度があれば意識レベルを上昇させることは容易であると博士は述べているのです。

この「意欲的な態度」ですが、さきほど挙げたように意識レベル310は意欲を示す領域です。この意欲とは成長、進化への意欲でもあります。つまり、霊的な探求者の道を歩きはじめるのは概ねこのレベルからであるとみなせるのですが、それだけではなく、探求の道を上へと登っていくためには、この意欲のアトラクターの影響が不可欠であるということです。例えばですが、意識レベル530の愛の領域にある人物が無条件の愛である540を超えられるかどうかは、この人が意欲のアトラクターにどれだけ賦活されているかによって左右される、というようなことがおそらく言えるはずです。

新しい仮説が可能であるかどうか、新しい評価を下すための手段として、心は開きます。変化のための動機は、人間のあり方の限りない側面と同じくらいいくつもありますが、心が謎や矛盾に挑戦するとき、大抵は自発的に生じるものであると理解されています。

新しい仮説とは、これまでの考え方、価値観、パラダイムがもはや自分の現実にあてはまらないのではないか? という疑念や違和感が芽生えたときに、「もしかしてこうなのでは?」という形でやってくるものです。人間はえてして他者から「それは違う、これが正しいよ」と教えられてもなかなか受け入れられないものですが、それと同じメッセージが自分のなかで自然と生じたときには容易く受け入れようとするものです。これが心が開くということです。心が開くとき、そこに変化のための動機があらわれます

実際にある特定の訓練(禅など)では、意識の飛躍を巧妙に行うために、故意にそういった行き詰まりを作ります。

禅には禅問答というものがありますね。公案とも言いますが、どれもすべて自我の持つ線形的な思考方法では答えの出せないものです。公案としてわたしが真っ先に思い浮かぶのはサリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」の中の短編のエピグラムにあったもので、「両手を叩いたときの音をわれわれは知っている。では片手を叩く音とはこれいかに?」というようなものです。

これについては皆さんでも一度考えてみてください。禅ではこのような奇妙な問いと向きあうことで、先ほど説明した新しい仮説が誕生することを誘発しようとしているのです。

個人的な話になりますが、わたしは人生のある時期に薬物とギャンブルに溺れた結果、職を失い、自己破産するところまで行き着きました。このときに経験したのは全方位における行き詰まりで、一言でいえば絶望でした。しかし、人間というものは面白いもので、絶望という状態でさえ、長く経験していると飽きてくるのですね。まあこれは今だからそんな風に面白おかしく言えるのですが、絶望に飽きたとき、わたしの内側で変化が起こりました。それが霊的な知覚(はじめは新しい仮説に過ぎませんでした)のはじまりであったのですが、この変化は意欲とともに生じ、それ以降のわたしの人生を駆動する動機となりました。

わたしのような経験はストーリーとして語るとそれなりに魅力的なものになってしまうのですが、そこで起きたことの本質は単に行き詰まりがあって、それを突破した(恩寵によって突破できた)というだけのことです。禅だけがすべてではもちろんありませんが、別に大変な経験を積まなくてもそれ(行き詰まり→新しい仮説→突破)を故意に起こす方法はあるよ、ということですね。もちろん、だからといって禅で悟ることが簡単だというわけではないです。

今回はこれで以上になります。これが参考になりましたら幸いに思います。ではまたのご質問をお待ちしております。お読みくださって、ありがとうございました。

――余談ですが、最近「NLPについて学び直せ」というインスピレーションが降りてきました。NLP(神経言語プログラミング)はビジネスマン時代にはひと通り齧っていて、そこで学んだものの一部はわたしの血肉になっていると思うんですが、なにしろもう20年くらい前のことなので、具体的になにを覚えているかといったら全然なにも出てきません。

すくなくとも日本では、NLPって学問というよりはちょっとした心理学のテクニックのように受け止められているんですよね。実際、NLPが知られはじめた20年前当時には「他人を思い通りに操ることができるテクニック」というような触れ込みと内容になっている本も結構出ていたように思います。

これって100%間違っているわけじゃないのですが、NLPって本来はそういうものじゃないんですよね。簡単にいえばNLPとは「うまく行っている人がなぜうまく行っているか」を解析する学問です。いわば「コツを研究する」学問なんです。上に挙げたテクニックめいたものはその研究の結果として見出されたもので、そうなった時点でそれはただのテクニックであって、もはやNLPとは関係がないと言っても過言ではありません(たぶん)。

とはいえ、そうして見出されたテクニックを例に挙げながらでしかNLPを学べないことも事実ではあります。なんでもそうですが、本質的なことよりもいかに売れるかが優先されるのがお決まりなので、まあこういうことに文句をいっても仕方はありません。

わたしの直感は、NLPの基本的な発想や、それによって見出されたテクニックのいくつかは霊的な探求を助けるツールになりうるのではないかと見ているようです。なので、すぐに取り掛かることはできませんが、ゆくゆくはじっくりと学び直して、それをみなさんにお伝えるできるように記事にしてみたいと思っています。

すでに一冊、NLPの書籍を購入してあるんですが、まだまったく手を付けていません。おそらく来年になるでしょう。そんな感じですが、これに興味をお持ちで、わたしの動きをすこしでも早めてやろうと思われた方はAmazonの欲しいものリストにNLPの開祖といってよいリチャード・バンドラーの本を載せていますので、ぜひわたしにプレゼントしてください。モチベーションが上がることは確実です。でも、いつやりはじめるかなど、約束はなにもできません😉✨️✨️(4/15追記:さっそくプレゼントいただきました!どうもありがとうございます😊)


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