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質問箱への回答④『祈りの本質とは?』

スナフキンさんからまたご質問をいただきました🙂

祈りが現実に影響を及ぼすことは、数々の大規模実験や調査などで証明されていますが、そもそも祈りとはなんでしょうか? 単なる願いとはどう違うのでしょうか? 

ご質問の内容は次のとおりです。

そして以下が、わたしからの回答になります。


スナフキンさんお久しぶりです🙂そしてご質問ありがとうございます。

日前神宮は相当古い歴史をもつ、格の高い神社ですね。和歌山自体、一般的に知られているよりも重要な歴史を記紀以前の時代にもっています。

神社には主祭神や相殿神といって特定の神様が祀られていますが、これを調べていくことによって、色々面白いことが分かってきます。ここでは日前神宮はホツマツタヱに書かれている天照大御神の前の世代の神話世界に関係しているとだけ指摘しておきます。

5年くらい前でしたか、わたしもよく神社に通っていました。その当時は日本の古代史の裏側に興味があって色々調べていたんですが、気がついたら神社巡りにハマっていました。わたしも参拝するときになにかお願いをするということはしませんでしたね。その頃は、その神社で祀られている神様に敬意を表してご挨拶するという感覚でやっていました。

今は神社に行くことは少なくなりましたが、うちの家のすぐ裏に神社があるので、ときどき気が向くと拝みに行っています。

八百万の神々といいますが、これは森羅万象のすべてには神が宿っているという考えからきていますね。この考えをもっと深くみていくと、そこにはすべてはひとつの神(=意識)の異なったあらわれであるという真理が表現されていることが分かります。

つまり、個個別別に祀られているどんな神々も、大元では存在するすべてであり、かつ存在の源であるワンネス(全体性)に行き着くわけです。ですから、神社で手を合わせるということは、目の前のその神様を通してこの世界のすべてに手を合わせていることになります。

もちろん、それぞれの神社には、その場所を多くの人々が訪れて手を合わせてきたスピリットが存在していますから、そのスピリット(霊)に対する敬意を忘れてはなりませんが、同時に、すべてであるひとつ(ワンネス)を想えば、その行為が祈りとなります。

さて、ご質問の「祈り」とはなんでしょうか?

わたしの考えでは、祈りとは自分の内なる神とつながることです。わたしたち人間の一人ひとりは聖なる全体性のなかの分離されない一部です。すなわち、わたしたちは神の一部であり、わたしたちは神そのものです。そう、わたしたちは本来が神なのですが、神性を忘れてしまった状態で人間界のドラマを演じているのです。

覚醒や悟りというものは、この聖なるドラマに気づいて、もとの神性を取り戻すことを指しています。この境地においてはもはや自らに内側も外側もありませんから、神とはただ「すべて」を指します。

しかし、そこに至るまでは、神は外側の世界(神社など)に存在していると人は考え、感じています。それは、自己が全体性(つまり神)と分離していると錯覚しているからなのですが、この錯覚を取り去るためには、内側に目を向けるプロセスが必要になります。

それによって、地上にある肉体精神機構の心がワンネスへと通じているより高次の意識へと開かれていきます。この高次の意識をハイヤーセルフと呼ぶこともできますが、このハイヤーセルフを含めてワンネスへとつながる意識の流れこそが「内なる神」です。

この内なる神を求め、それを知覚し、交流することができるようになれば、そのときにはもうそれは内なる神ではなく、神そのものとして認識されるようになります。祈りの本質は、この認識にたどりつけますように、と願う行為です。言い換えると祈りとは、分離ではなく統合を目指すという万物の進化の方向性を意識する行為でもあります。

もちろん、自分や周りの人々の幸せを祈ったり、世界の平和を祈願したりすることも祈りです。こうした祈りが祈りとして成立するのは、すべてがひとつであり、そしてそのすべてとは神のことであり、したがって一人の人間も神であるからです。つまり、そもそもすべてがひとつに統合されているこの世界においては、統合的な願い(祈り)は聞き入れられる余地があるということです。

といって、もちろん祈ったことがすべてその通りに現実化するわけではありません。でも、これが大切なところですが、すべての祈りは届くところに届いてはいます。これも繰り返しになりますが、すべてはひとつであり、すべては神の一部であるからです。

さて、祈りについて書いてみましたが、あくまでこれはわたしの考えることであって、他にも色々な考えがあってよいと思います。ですが、一般的な願い事であれば、神社でお願いしたり、一人静かに祈りを捧げるよりも、トランサーフィンを活用してその実現に取り組まれたほうがよいでしょう。もちろん、その上で祈るということなら、それは構わないですが、統合的でない祈りはそもそも祈りではありません。

スナフキンさんが神社に行くようになったのも、内なる神の導きによるものです。そして、その内なる神が次にスナフキンさんに、わたしに「祈りとはなにか」とたずねさせているわけです。ですから、スナフキンさんはもっとたくさん祈る必要があるのだと、わたしは思います。スナフキンさんが神人合一されますように、わたしも祈っていますよ🙏


ここまでになります。

ちなみにですが、神社を神に祈りを捧げる場であるとみなすなら、実は日本人って世界でも稀有なほど敬虔な民族なのかもしれませんね🙂

読んでくださってありがとうございました。

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