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リアリティ・トランサーフィンの考察㉗『魂の声がきこえない・他人の目的と振り子』

早いものでリアリティ・トランサーフィンの考察シリーズも27回目となりました。書きはじめた当初は1巻と2巻それぞれ3本ずつで合計6本くらいのボリュームで書けるかな? と思っていたんですが、見積もり違いも甚だしかったですね。もっとも、読んでくださった方にトランサーフィンへの興味を持っていただくための紹介記事というようなものであれば、実際それくらいのボリュームで書けないことはなかったと思います。

トランサーフィンについてのゼランドの本が現在も刊行中であったなら、むしろそういう記事のほうがよかったでしょう。しかしながら、中古本でしか入手できないのは仕方ないとしても、高いときは一冊1万円を超えるような高値をつけているとなると、興味を惹くだけ惹いておいて、あとは高額な本を買ってもらうか、さもなくば諦めてくださいというようなことは、けっして無責任だとか悪いことだとかは思いませんが、わたしにはできないことでした。

結果ここまで書いてきた記事は、基本的には原著を一度も読んだことのない方でもトランサーフィンについて一通りの理解が可能な内容を目指しています。それが果たしてどこまで実現できているかはわたしにも計りかねますが、少なくとも読み物として一定以上楽しんでいただけるものにはなっているかな、と思ってはいます。とはいえ、とくに第2巻の内容についてはゼランドの言っていることが必ずしも理路整然とはしておらず、腑に落ちるところまで説明されていないものや、やや矛盾を感じるような点がいくつかありました。

これについて、分からないところは分からないまま、ゼランドの述べていることをそのまま紹介するか、それとも、わたし個人の世界や現実への理解の仕方を踏まえた編集を加えてでも明確なトランサーフィン像を描写するかについて、わたしにしてはだいぶ考えこみました。結果、後者の手法を採ることにしましたが、これについては賛否あるかもしれませんね。ただ、すくなくともわたしには自分の書いたものが正しいのだと主張するつもりはまったくありません。これはトランサーフィンについての、ただの一つの解釈です。ほかにも解釈の仕方はあると思いますし、色々な解釈の余地があるということ自体がトランサーフィンの奥深さを物語ってもいると思います。


さて、前々回の記事でこういうことを書きました。

そもそも、ここまでのところ、魂がそれを望んでいるということについては、どうやってそのことを知るのか? 分からないときはどうするのか? といったことについては触れていません。これについてはまた別の記事で書いていく予定ですが、ここでは快適域が拡大されれば、そのとき理性は魂がそれを望んでいることをはっきりと分かるようになる、という風に理解しておいてください。

今回はこの中の太字にしてあるところ、すなわち目的の実現について、

「魂がそれを望んでいる(望んでいない)ということについては、どうやってそのことを知るのか? 分からないときはどうするのか?」

ということについて、いくつか考えてみたいと思います。

そもそも、人間には魂と理性が最初から備わっているのに、どうして理性は魂の望みや警告をすんなりと受け取ることができないのでしょうか? そうなったのはいつからなのでしょうか? なぜ、そうなったのでしょうか?

大きな流れで言うとそれは、人間が社会化していくにしたがって、魂(潜在意識や直感)の仕事が少なくなって、代わりに理性(ここでは論理的思考)を必要とする局面が膨大に増えていった結果といえるでしょう。

それに加えて、社会の頂点にいる権力者や権威者たちは、人々が魂とつながって本来の自由さを取り戻すことは大きなリスクだと考えるようになりました。そこで、魂と理性を意図的に切り離すために、ありとあらゆる政策や法律、文化や教育などなどが導入されていったかもしれませんね。こうしたことについて、トランサーフィンの観点からゼランドはこのように述べています。

外的意図と関係するすべては、理性の概念の枠には当てはまらない。理性は自分で自分をこのような状況へと追い込んだ。そして、振り子がそれをうまく誘導した。理性が外的意図のコントロール方法を手に入れると、人は自由を得てしまうことになり、それは振り子の利益に反するからだ。

「願望実現の法則」リアリティ・トランサーフィン〈2〉魂の快/不快の選択
ヴァジム・ゼランド著(以降の引用文も同じ)

理性が自分で自分をこのような状況(魂との断絶)へと追い込んだというのは、先に挙げたように人間が社会化していく過程で理性が魂の役割を奪っていったということを指していますね。

問題となるのは、「振り子がそれをうまく誘導した」というところです。そもそも振り子とは同じ集団に属する人間の思考エネルギーが集まって、まとまった一本の流れとなったものですから、振り子の起源は人類社会のはじまりとともにあるはずです。そして、いちど出現した振り子はそれにエネルギーを提供している人々(信奉者)の思惑には従わず、逆にまるで意志を持っているかのように振る舞って、信奉者たちを自らの周波数に同調させ、勢力を拡大していきます。

このような振り子の活動メカニズムを一言でいえば「理性を魂から切り離して乗っ取ってしまう」と表現できるでしょう。ある意味では、振り子とは理性の暴走性を視覚化したようなものだとも言えるかもしれませんね。

外的意図をコントロールする能力を人から奪うためには、理性を魂から分離すればよいだけだ。実際、そうしたことが行われてきた。人類の全歴史を通じて、理性を魂から隔離するという大変な作業が行われてきたのだ。理性はいつも自分の記号言語の完成に取り組んできたため、ますます魂の言語から遠ざかっていった。宗教の振り子は科学の振り子と同様に理性を様々な方向へと引っ張っていくが、それも理性を魂の本質からできるかぎり離れさせようとするものだ。最近数百年間における工業技術や情報技術の発展は、魂と理性の結びつきを完全に断ち切ってしまった。

まとめると、人々が外的意図をコントロールできなくなってしまったのは、理性が自ら魂と距離をとるようになっていった(=文明化、社会化)からなのですが、そうした理性の働きが振り子を産み出すようになっていくと、宗教の振り子や科学の振り子といった巨大な振り子によって、理性と魂の分離はますます大きなものになっていった、というところでしょうか。

それぞれの魂には、自分だけの光り輝くセクターがある。本当はこうしたセクターは無限にあり得る。それは明らかなことなのだが、ここでは個々の魂には独自のセクター、つまり個々の目的や道があるとしておこう。

振り子の餌に心を奪われた理性は、他人の資質を模倣しようとしたり、他人の成功のシナリオを追体験しようとして、誰かのセクターで要領を得ないまま足踏みをしている。しかし、他人のシナリオを真似することは常にパロディーとなる。魂は他人のセクターで自分を現実化することはできない。では、どうやって自分だけのセクターを見つけたらよいのか? あなたの理性にこのことを心配してもらうには及ばない。魂自身が自分を表現する道を探し出すだろう。

理性がやるべきことは、他人の経験を頭から追い払い、自分の魂の独自性を認め、魂が自分の道を進むようにしてあげるということだ。

ここには重要なポイントがあります。まとめると「魂にはそれぞれの目的や道があるが、振り子に支配されてしまっている理性は他人の目的や道を自分のものだと勘違いしているため、なにも実現できないでいる」といったところですが、これは例の表でいえば、左下の「魂は望んでいない(不快)のに、理性はそれに前向き」というケースです。

魂が快なのか不快なのかよく分からない、あるいは魂がその目的を望んでいるのかどうか判断ができない、という場合において、まず考えてみるべきなのは、それがこのケースに該当しないか? というものです。具体的には、その目的がどういう振り子と関わっているだろうか? ということをチェックしてみよう、ということですね。

およそ願望というもののほとんどすべては、なんらかの振り子と関係しているはずです。その振り子と関わることが自分の目的を現実化させるためにどうしても不可欠である場合、たとえばダンサーになりたいならダンススクールの振り子とはむしろ仲良しになるべきですね。そして、そのスクールでよい先生にも恵まれ、だんだん才能が認められていったとします。すると今度は有名な芸能事務所から声が掛かるかもしれません。芸能事務所にも色々あるとは思いますが、間違いなく言えることは、いずれの芸能事務所も強力な破壊的振り子です。

ダンサーとして成功するというその人の目的が純粋なものであれば、このような破壊的振り子からの誘いは断って、世界的なダンスコンクールでの入賞を目指すかもしれません。しかし、ダンサーとして頭角を表すことはあくまで有名になって人々から注目されるための手段であったなら、その人は芸能事務所の振り子の支配下となるしかありません。こうなると、もはやその人は振り子のお気に入りである事務所の社長やその事務所の先輩であるスターたちの目的を実現するために自らのエネルギーを捧げることになります

つまり、目的が破壊的振り子との関わりを避けられないものである場合、実はその目的はあなたのものではなく、他人の目的であるということです。

振り子によるペテンに引っかかってはいけない。振り子はあなたをけしかけて、他人の目的を追い駆けさせることがある。それはあなた個人に、失望以外に何の利益ももたらさない。なぜあなたに他人の目的が必要なのか? 理性ではなく、自分の魂の声に耳を澄まそう。魂は、あなたがどんな分野でスタートしての才能を発揮できるか、一番よく知っている。

他人の目的を実現することに、魂はなんの関心ももっていません。かといって強く反対するわけでもありませんが、すくなくとも手を貸してくれることはなさそうです。ですから、その目的が他人の目的であることが明らかである場合、その目的の実現は魂は望んでいない(不快)ということになりますね。

他人の目的と自分の目的ということについては、また後の記事でもう少し詳しくみていく予定ですが、いったんここまでとします。いずれにしてもとにかく破壊的な振り子には近寄らないのがいいですし、すでに関係しているなら縁を切るのがよいです。魂の声を聞き遂げることができないときでも、振り子のチェックなら理性だけでも可能ですから、まずはこのことを覚えておいてください。

さて、これでひとつ魂の快・不快を判定する方法が見つかりました。もっとも、その目的が破壊的振り子を避けて通れないようなものである場合、重症といっていいくらい理性(=エゴ)が暴走している人でないかぎりはきっと、魂が不快であることは分かるとは思いますけどね。

それが分からないということは、理性と魂が大きく断絶しているということですが、これを別の角度からトランサーフィンの言葉で説明すると「意識性が低い」ということになります。意識性が低いということは気づきの度合い(意識的である度合い)が低いということとも言えます。

魂(潜在意識)の声を聞くには意識的であることが必要ですが、意識的であるとは理性を緩めて思考や感情と距離を置くということです。このことについてはすでに様々に述べてきましたからここで同じ話は繰り返しませんが、意識性を高めつつ、魂の快・不快を見極める方法をもう一つ紹介しましょう。

実は、それはスライドです。

そう、ここでもスライドを試してみる価値があるんです。魂の快・不快がはっきり分からないということをゼランドは「魂のぎこちなさ」と表現していますが、魂のぎこちなさがある場合にもスライドによって快適域を拡大してみよう、そうすれば魂のぎこちなさがなくなり、快か不快かが明らかになるだろうと言っています。

わたしの見解では、スライドを使いこなすことも十分に意識的な作業です。つまり、スライドは快適域を拡大させると同時に、意識性を高く保つことにも貢献してくれるはずです。意識性が高まるということは、理性がふたたび魂とつながることも意味しています。それもあって、スライドを使うことによって魂のぎこちなさを取り除けるのだろうと考えます。

先ほどのダンサーの例でいけば、ダンススクールで認められはじめた段階で、大手芸能事務所と契約して成功していく自分というスライドを作ってそれを頭の中で上映し続けていたら、やがてその目的は快適域に入ってくるでしょう。理性はいよいよやる気になるはずですが、同時にそこで、「ん? なんか嫌な感じがするぞ」「あれ、思ったほどワクワクしてこないな」という感覚がやってくるかもしれません。

スライドにはこういう使い方もあるのですね。これも覚えておいてください。さて、文字数が5000を超えてしまいましたので、今回はここまでにしておきましょう。次回の記事では、魂と理性のつながり自体を直接的に強化するユニークな方法として、守護天使という技法(?)を紹介したいと思います。本の中ではちょっとしたオマケ的な話になっているのですが、これはなかなか面白いと個人的に思ったので、一つの記事をまるまるこれに充てることにします。

それでは、次回の記事もお楽しみに。読んでくださってありがとうございました🙂

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