譲られる側
高校生のときの話。
駅のベンチに座ってうつむいていたら、前方から妙な圧を感じたことがある。誰かが自分をじっと見ている。なんとなく、席を譲ってほしいんだろうなと見当がついた。
こういうときに、さっと顔を上げて譲れるようならよかったんだろうけど、当時はそうじゃなかった。その「誰か」が何も言わず、ただ自分に圧をかけ、無言で「どけ」と言っている。そのことに苛立って、ずっと頑なにうつむいていた。
結局、近くにいた女性が気づいて「こちらどうぞ」と声をかけた。自分は、そのとき初めて気が付いたように顔を上げて席を譲る。相手はおじいさんで、何も言わず、ジトッとした目でこっちを見ながら座った。
心の中で呪詛の声をあげる。
黙って突っ立ってるだけで、ほしいものが手に入ると思うなよ。口が利けるならなんとか言え。なんで私がどいてあたりまえみたいな顔してるんだ?
当時は「誰も私に優しくないのに、なんで私が誰かに優しくなきゃならないの?」という気持ちが渦巻いていたので、自然、心の声も殺伐としていた。あれから10年以上経った。自分も少しは穏やかになった、と思う。そしてもっと言えば妊婦になった。
かばんにつけているマタニティマークは、直径10cmもない。そこに小さな字と絵で「おなかに赤ちゃんがいます」と書かれている。たいていの人が気づかない。気づいていても無視する人もいる。たまに譲ってくださる方もいる。
立っているのがすごく辛いわけじゃない。特に少しのあいだならなんてことない。でも1時間近い通勤のあいだ電車の中でずっと立っているのは、妊娠していなくても負荷になる。立ちっぱなしはお腹によくないらしい。できたら座りたい。
だけど席が空いていない、優先席も埋まっているときがある。こういう瞬間に、都合のいい考えが頭がよぎらないか、と言えば嘘になる。誰か、マタニティマークに気づいて席を譲ってくれないかなあ……って思いが。
自分がかつてどんな人間だったかを考えれば、これはフェアじゃない。あのとき心の中で吐いた呪詛は忘れてない。
黙って突っ立っていれば、ほしいものが手に入ると思うなよ。口が利けるなら交渉しろ。自分で指一本動かさないくせに、他人が思い通りに動いてくれると思うな。
それはそう。助けが必要ならそう言うべきだ。「あーあー周りが気づいてくれない!私がなんにも言わなくても思い通りに動いてほしいのに周りがそうしない!」なんて考えはなんら役に立たない。
だから立つのが辛いときには、まず優先席を探す。埋まっていたら、ヘルプマークなどを着けていない人に声をかける。すみませんが、体調がお悪くなければ席を譲ってもらえませんか。
これを「図々しい」と思う人もいるだろうけど、それで構わない。ものほしげにウロウロしながらマタニティマークをちらつかせ、誰も気づいてくれないと被害者ぶるより、ずいぶんマシだと思う。
いまになって、高校のときのことを振り返り、ひょっとしたらと思うところがある。ひょっとしたらあのおじいさんは、なんて言ったらいいかわからなかったんじゃないか。
座らせてほしいけれど、なんて話しかければいいかわからない。そもそも赤の他人に助けを求めるのに慣れていない──。それで結果として視線で圧をかけ、誰かが気づいて声をかけてくれるのをひたすら待つしかなかったんじゃないか。
だとしたら悪いことをしたな、と思う。あのときはただ、無言で要求を通そうとしてくる嫌な奴としか考えなかったけど、それ以外の方法を知らなかったのかもしれない。自分が譲られる側になったいまなら、そんな風に考えられる。きっとあのときよりはもう少し大人になって、世界に優しくなれるはず。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。