みずから名乗るとモヤモヤする

 結婚する前の時代はあったけど、それを「独身」と呼ぶのはずっと変な感じがしていた。大人になりきれてなかったのかもしれない。たとえば小さな女の子が結婚していないのはあたり前で、それを独身とは呼ばないように。
 
 結婚してからは既婚者になり、それから更に「ママ」になったわけだけど、これらも自称するにはなんだか違和感がある。誰かが自分を見て「既婚ね」「お母さんなのね」と言うのは構わなくても、みずから名乗るのは落ち着かない。
 
 noteのプロフィール欄には「ワーママで3児の母」とか「24歳独身」とか「フリーの○○屋です」と書いている人が多くて、すごく正しいなと思う。他人に自分を紹介し知って貰うためには、他人がわかる概念、言葉を使わなくてはならない。
 
 そこに違和感を持って足踏みしているようだから、自分のプロフィールは今みたいな感じになってしまう。実質、自分についてなにも言ってない。でもこうなってしまうんだ、なにかを自称しようとする度にいつも足踏みしてしまう。

 唯一「大学院生です」と名乗ったときはあった。どうしてあれを名乗るのに、なんの違和感もなかったんだろうな。院生というものに、世間があまりイメージを持っていないから、だろうか。
 
 たとえば「母親です」と書いてしまうと、母親らしくあらねばならないような気がする。でも自分が「いかにもママ」みたいな日々を送っているかというと、それはわからない。比較対象もないし、とりあえず子育てしてますってだけ。
 
 世間のイメージがある程度、固まっている肩書きについては、いつも及び腰になってしまう。そんな大層な肩書き背負えないよ、という、軟弱な気持ちが背中に貼り付いている。
 
 まだ言葉も話せない子どもに向かって「お母さんですよー」と言うときも、うっすら嘘をついているような感覚になる。世間で言うところの母親像を、自分は体現できているんだろうか。自称するたびに居心地が悪い。
 
 誰かが自分について貼ったラベルに違和感を覚える。そんなことは誰でもあるんじゃないか。思春期の頃に「子ども」という枠の中に押し込められて、「おとなが思ってるほど子どもじゃない」と反感を覚えた記憶が、誰にでもあるんじゃないか。
 
 もしくは「女性だから」「男性から」あれはできる、これはできないだろうと言われたり、おじさんだからおばさんだから○○だと言われたり。おじさんもおばさんも、女性も男性も、そう分類すると話が早いときに使われるラベリングに過ぎないのだけど。
 
 別にラベリングが悪いわけじゃない。ただ、自分でみずから名乗るときには、そのラベルに乗っ取られないよう気をつける必要がある。属性が○○だからそれらしくあらねばならない、なんてことは本当はない。
 
 規範意識っていうんだよね、そういうの。○○たるものこうあるべし、みたいな意識はいいものだと思うし、そういう型にはまることで救われることもある。どうあればいいかを決めてくれるから。自分で考えなくたって、そこに従っていればだいたいうまくいく。
 
 でもそこにどうしても違和感があって、やりきれないときもある。世間の思う「女性」のイメージに合わせようとしたら、何かも変になってしまった、とか、「お母さん」をやろうと頑張りすぎて病んでしまうとか、そういうこともある。
 
 自称すると、自称した肩書きにいろいろ乗っ取られそうで躊躇する。変なプロフィールを使うのは、そのへんのモヤモヤがあるせいだ。たまに他の人の「以前助けていただいた鳩です」みたいな、絶対に嘘でしかない自己紹介を見てちょっと嬉しくなってしまう。
 
 わたしも「あなたが幼いころ乗ってた自転車です」「そこらへんの街路樹です」とか名乗ろうかな。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。