主語が「みんな」であることの長短

いいか悪いかは別として、主語が自分ではなく「みんな」であれば、大抵のことに耐えられる。

自分だけがしている経験だと思うと、辛くて恥ずかしくてどうしようもないようなこと(例えば失恋だとか、仕事の失敗だとか)も
「みんなそれくらいするよ」
「誰もが通る道だよ、そんなこともあるよ」
と言われると、心が少し軽くなる。自分が一人ではないと感じるために、近い心情を描いた文学に傾倒したり、SNSで共感を求めたりする。そうして、仲間がいると知って安心する。

私も、コミュニケーションが下手なのが世界で自分だけだったら、孤独で寂しくて惨めで仕方ないだろう。でも、私だけじゃない、そんな人いっぱいいると思うと耐えられる。それはいい。

でも一方で「みんなが」やっていると、どう見ても間違ったことも受け入れてしまう。学問する気のない人が、高い学費をかけて大学に行く。集団のいじめに荷担する。何の意味があるのかわからないけど、とりあえず必要だと言われて資格を取る。

戦後にPTSDにかかった米兵は多いが、日本兵には比較的少なかった……という話を聞いたけど、それは日本人のほうが「みんなやっていた」という意識で罪悪感を分散してたんだろうな、と思う。

主語が大きくなると、自分ひとりではやらないようなこともしてしまう。そのことが怖い。

いつでも大きな主語に逃げ込んでしまえる、というのは、安心でもあり卑怯でもあり。とにかく負の側面には、陥らないようにしたいと思うのです。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。