意識低いけど努力はします

 本を読みながら、我が身をふりかえっている。いま開いているページには「お手伝いをしてこなかった家の子は、何もかもやってもらってあたり前という意識を持っている。家族間で協力しようという姿勢に欠ける」といった内容が書かれている。
 
 自分はよく「家庭的な雰囲気」と言われてきたのだけど、家庭的なのは雰囲気だけだ。実家を出るまで、家族の一員としてきちんと家事をした記憶がない。料理を覚えたのはひとり暮らしを始めてからで、いまでも揚げ物はやったことがない。
 
 実家には祖母も母もいたから、たいていの家事はふたりが担った。母は働きに出ていたのもあって、わたしに家事を教えている余裕がなかった。祖母は祖母で、現役時代は女中に家事をさせていたので、この手のことは下女の仕事と考え、孫にやらせたがらなかった。
 
 何もかも、やってもらってあたり前。料理も洗濯も掃除も。買い物にはよく付き合って荷物を持ったけど、やったのはそれくらい。ベッドシーツを変えたり、食器を洗ったり、アイロンをかけたり、そのすべてが「家族の誰か」の仕事だった。
 
 「こんな風に育った人間は、家族間で協力することに慣れてない」。そう結論付けられても仕方ない。自分はいいサンプルになる。そうなんです、ときどき思い出したように手伝わされるだけだったから、身に着いてないんですよ、いろんなことが。
 
 そういう自分も結婚して子どもを持った。こうなると「身に着いてないんですよ」では済まされない。どうしたもんかな、と思う。「やってもらってあたり前」の精神は自分に染み込んでいて、なかなか取れないんじゃないかって気がする。
 
 なんか本によると、「子どものしたいことだけ『させてあげる』お手伝い」は身に着かないらしいよ。きちんと工程を教えて、本人がやりたがらないときでも、責任を持ってやらせるのが大事みたい。そんな躾、わたしにできるかなあ。自分が受けてこなかった躾。
 
 思い返せば、母にも似たような葛藤があったのだろう。ときどき、面倒くさがるわたしを無理に手伝わせようとして、挫折して、「もういいや」みたいになっていた。
 
 祖父に至っては「メルシーはいいんだ。家事のできる旦那をもらう子だから」と決めつけて、家事能力の低さを問題にしなかった。
 
 うーん。
 
 おじいちゃんへ。確かに旦那さんは家事のできる人だけど、それは「わたしはできなくてもいい」を意味しないし、自分ができないことは、子どもにも教えられないよ。自分が受けていない躾って、どうやったらできるようになるんだろうね?
 
 ささやかな抵抗(?)として『1歳から台所仕事をさせよう』みたいな本を買って読んでいる。読んでいるけど、すべてその通りにはできないと思う。そしてできなくても、できるようになろうと努力することには意味がある。
 
 最近では旦那さんに「赤ちゃんを寝かしつけて」と言われただけでモヤっとしてしまう。いや寝るまで待てばいいでしょ、とか、授乳以外はあなたでもできるでしょ(だから自分でやって)と思ってしまう。
 
 でも彼は、産後に家事の大半を引き受けてくれた人だ。いまでも、週に1回はベッドシーツと枕カバーを替え、日々の掃除をし、毎日食事を作り、買い出しに行く。ついでに散歩になれば赤ちゃんを抱っこするのは彼の仕事で、朝だけは赤ちゃんの世話もする。
 
 自分は文句を言える立場にない。それなのに「してもらってあたり前」精神が巣食っているので、自分の役割である育児まで、彼に振りそうになる。家族間で協力することに慣れていない。慣れていなくてもやる。だってもういい大人なんだから。
 
 意識が低いまま、どうにかよい方向に変わろうとあがくこと。子育てならぬ自分育ての日々。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。