恵みの呪い

可哀想な私の姪。遺伝子の宝くじは彼女に優しすぎた。(…)誰だって美しくありたいことは言うまでもないが、女性における美しさは時として呪いになりうる。 

ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』柴田元幸訳、新潮社、令和2年、99頁。


 娘を産んだ。女の子でなくても、人間ならルッキズムから逃れられないだろうと思っている。まだ赤ちゃんだから顔の造りがいいの悪いのとは言いにくいが、遺伝を信じるなら、絶世の美女にはならないだろう。
 
 美しさは武器のひとつだ。それは認める。武器はないよりあるほうがいい。それもわかる。それでも、目の前の赤ちゃんの将来について「絶世の美女になってくれ」とは思わない自分がいる。
 
 持って生まれた美しさの嫌味なところは、歳とともにその訴求力を失うところにある。知識は増やしていくことができるし、スキルは磨いていくことができるけど、生来の美しさは儚い。こんなものを武器に生きたら、人生まで儚くなってしまわないか。
 
 若いときにちやほやされて勘違いし、何も持たず何も磨かず、内面的な成長もないまま老化を迎える……というのが、想定される儚い人生になる。若いときにちやほやされるだけマシだろうか。それとも美女というのは、老いても人が寄って来るのだろうか。
 
 自分がそうだったことがないのでわからない。優れた容姿はいいものだし、それを維持しようとか作り上げようという努力も悪くないと思う。でも自分の子どもがそればかりに血道を上げていたら、静かな失望を感じるだろう。
 
 醜いよりは美しいほうがいい。それはそう。そうだけど……。
 
 たぶん人生は、持って生まれた美しさだけで最後まで優位を取れるほど、わかりやすくできてない。そんな気がする。人生の後半になって、外面だけいい人間が愛されるなんてことはない。残念ながら人生は長い。穏当に行けば、20年かそこらで終わってはくれない。
 
 持って生まれたものに甘えたが故に、後半で悲しくなる……みたいなの、見てる側も切ないんだよな。そうはなってほしくないんだ。もっとも最初に書いたように、遺伝を信じるならこれは杞憂に終わるだろう。うちには小野小町の遺伝子なんぞ入っとらん。
 
 ときどき、見えない世界を信じている人からこんな話を聞く。
「自分の外見や境遇は、生まれてくる前に自分で決めてくるんですよ」と。
 
 決めた覚えないです。と言い返したくなるけど、仮に生まれる前にあれこれ神さまに質問されるとしよう。たとえば、顔の美しさと愛嬌、どっちを持って生まれたい?みたいな。こんなん愛嬌一択だろ、と応じる人間は、きっと美女コースを外れるんだと思う。
 
 知らんけど。
 
 オースターの『ブルックリン・フォリーズ』を読んでいたら、美人な姪の大変な人生の描写が出てきたので、ついそんなことを考えてしまった。産後はなかなか本屋に行けないので、今まで読んできたものを何周も読み返している。
 
 『ブルックリン…』は何回ページをめくってもおもしろい。英語版も持っているけど、これは日本語訳で読むほうがしっくり来る。自分が好きなのはいつだって翻訳された世界であって、翻訳には原文にはない良さがある。
 
 で、それを言うためには両方読んでみる必要がある。同じことで、どんな人生が一番いいかなんていうのは生きてみないと言えない。ひとつしか生きられない以上は、あれがいいの、これが悪いのと言うのはきっとあまり意味がない。
 
 才能だって富だってなんだって、そりゃあ持っているほうがいいけど。この「けど」の後を生きなくてはいけないわけで。
 
 もっとお金持ちの家に生まれてもっと美人でスタイルがよくて才能があって頭が良くて仕事ができたらきっとよかったね。でもそんなの言ってみても仕方ない。恵まれることの呪いなんてのは、恵まれてから心配すればいい。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。