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アンチテーゼ~人たらしなんていらない。駄文は心強くそれを否定する
「ひとたらし」といわれることしばしば。それが悪い意味で使われている言葉であることは承知していても、そんなに悪い気分ではないというのは、僕がどこか壊れているからなのかもしれない。
困っている人を放っておけないというのはおせっかいでしかないのもわかっているが、それでもできるかぎり何かしたいと思ってしまう。
「偽善はきらい」といわれようが、僕は「偽をもって善をなすは、義をもって善をなすのとなんらかわらない」と考えるようにしているので、怒られているとはわかっても、それをやめる気にはなれない。
偽と義ではまるで違うのはわかっている。でも偽は義によってなされることもある。相手に恩を着せるつもりはなくても、善意を踏みにじられれば人は怒る。それが偽善ならばどうなのであろうと思う。
人に好かれたいことだけするのを人たらしというのであれば、それによって多くの人が困るのでなければ、その半数にでも感謝されれば、何もしないよりはプラスではないだろうかと考えてしまう。
駄目だということがわかるだけで、それは経験になるし、それで離れる人は仕方がないとも思える。そういう考えが許せないという人には申し訳ないが、これは性分なのだから仕方がない。
さて、「ひとたらし」と僕に面と向かって言った彼女は、そう言いながら笑っていた。それは諦めを含む笑いなのか、してやったりの笑いなのか、兎に角、僕らはそのとき笑いあったのだ。もし優しさと呼ばれるような行為を彼女だけに向けていたのなら、彼女はそれをただの優しさとしてではなく、自分を特別に見てくれていると認識でき、それはそれでうれしいことだったのだろうか。そうだとして、それなら僕はそれをしなかったのかもしれないし、やっぱりしたのかもしれない。
結果がわかっているかどうかではないにしても、仮に僕自身に彼女に対する好意があったにしても、優しさをエサに相手の好意を得ることに比べれば、「ひとたらし」といわれる自分の在り方でいいと思っている。
ああ、だめだなと思いはするが、仕方がないと考えている。
どっちにもいい顔をしていたら、いつかみんなから嫌われる。そんなことは百も承知で、そうなってもいいからそうしたい自分がいる。僕の大事な何かを犠牲にすることは厭わないなんてことはない。それはだめだ。しない。
調子のいいことを言っているのはわかっていても、他にやり方を知らないのだから仕方がない。
僕は痛がっている人の背中をさすり、大丈夫だよという
薬が必要なら薬局に走る
痛みだけは取ってあげたいと思う
苦しいのなら吐き出させてあげる
喉につかえたものを魔法の言葉で取り除いてあげる
疲れたのなら肩も貸すし、休める場所まで運んであげる
眠れないのなら眠れるまで語り合う
子守歌は知らないし、うっかりするとこっちが寝てしまう
そんなことで力になれるのなら、それをしない僕なんかいらない
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