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アンチテーゼ~ポートフォリオなんていらない

書くことが楽しい非日常は世界を歪んで見せる


書くこと』について書くことは確固たる自信があって絵空事を文章に加工する動機や作法を恰好つけて書くことなのだろうか?

 今一つリズムに乗れない韻を踏むことに意味はあるのだろうか。

 よく聞かれる。なぜ書くのかと。どう書くのかと。テーマはどう見つけてどう選ぶのか。
 正直に答えれば『そんなの知らん』になる。ただわかりやすくするために僕は言葉を選ぶ。わかりやすいように、納得してもらいやすいようにボキャブラリーの引き出しから質問者にあった答えを引っ張り出す。

 それはいい手本があって、それにならって書いているだけ。好きな本があって、それは好きな作家ということになり、好きな作家の本を読んでいれば自然にそれに近い文章力と着想力が身につく。
 好きな音楽を聴いていれば、自然にメロディーを口ずさむまでは誰でもできる。そこに流れている伴奏やリズムや音色にまで耳が行けば、楽器を弾くことも曲も作れるようになれるのと同じこと。

 これは嘘だ。

 とてもよくできた嘘だ。でも本物よりも偽獲物、まがい物のほうがより本質をとらえているということもある。なぜ高級ブランドは高級なのかという本質となぜそれを欲しがるかという本質は必ずしも一致しない。

 それを持っていることを自慢したい人もいれば、デザインの格好良さに惚れる人もいれば、ただ単に価値のあるものを持っているという夢を見たい人、様々な本質がそこにはある。

 さて、僕の、こうして文章を書いている筆者たる「めけめけ」という肩書で好き勝手に書いている一人の人間の本質はどこにあるのだろうか。

 書くこととは日常であるか、非日常であるのか。答えは僕の中にはない。それが本質だ。読むことが好きな人にとって読むことは日常で書くことは非日常。そして僕にとっては読むことが非日常で書くことが日常であり、しかもその割合は常に変化をする。
 かつての僕は読む人であり、書くことは非日常だった。めけめけと名乗るようになったのも仕事に関連してSNSの実態を調べるために、とあるサイトに登録してブログ的なことを書くための「ハンドルネーム」だった。

 めけめけの誕生はつまりは好奇心と生活環境が生み出した「かりそめの存在」であり、今もこうして『めけめけ』というペルソナが文章を書き続けているのはゴーストのようなものなのだ。

 これ、まさにゴーストライター。

 韻を踏むにも失敗し、オチもいけていないが気にせず書ける僕は、めけめけというペルソナにそのすべての責任を押し付ける。これが本質だ。

 ゆえに書くことが楽しい非日常は世界を歪んで見せる

 のらりくらりと具体性に欠いた文章は、ときに人を不快にさせるかもしれないが、その苦情が僕自身に直接届くことはほぼない。それができるのは僕の本質を知るカミさんくらいのものた。

 偽善者

 その通り。僕は偽善者であり、その性質をキャラクターにしたのがめけめけなのであるから、僕は書いていない。めけめけが書いた物語はすべてそのキャラクターが想像した2次的創作物、劇中劇のようなもの。これが本質であり、だからといってこんな話を「なぜ書くか」という問いに対して投げたところで受け取ってはもらえないだろう。

 そして受け取ってもらえなかった僕は、きっと傷つく。

 義をもって何かをなすという大義を「偽をもって語る者」が僕の本質であり、人間性や品性においては「めけめけ」ほどに成熟もしていなかれば、若さもない。「めけめけ」は望まれて生まれたわけではないが、彼が生まれてまだ15年しか経っていない。


2009年12月が誕生日?

 誕生にはもう一つのストーリーがある。小さなネットのコミュニティで「めけめけ」と名乗りながらも、まわりからは「まめパパさん」などと呼ばれていた僕は、子供たちや料理の写真をアップしつつ、好きな音楽や映画についての記事らしきものと当時見ていた仮面ライダーやらそうしたテレビ番組のレビュー的なものを書いていた。

 そして死が訪れる。一つにはそのサイトの閉鎖、そして僕が務めていた会社の倒産。「まめパパ」はアメブロへ引っ越ししたと同時に「めけめけ」として生まれ変わり、また社会人としての僕は倒産した会社の残務処理のため事務所に一人のこり、債権者とやり取りをしながら暇な時間を使ってちょっとした物語を書き始めた。

 アメブロで実験的な小話を書いているうちに、「あれ? こいつ、書けるぞ」と小話が小説になり、そして小説投稿サイトに「めけめけ」としてデビューしたのが2010年。それをきっかけに手当たり次第に新しいサイトを見つけては書き散らかしてきた。
 そして書き散らかすうちに文章の書き方を身に着けていく過程でもう一つの大きな出来事、それはネットではなくリアルで「めけめけ」という存在が認知される瞬間がやってくる。

 それは『山作戰』という名前で活動しているインディーズアーチストとの出会い。彼のライブ配信をネットで観てからファンになり、ライブ会場に足を運んだ時、彼が僕に声をかけてくれました。
「めけめけさんですか?」

 会場には彼を応援する濃い人たちがいて、その中で僕は「めけさん」と呼ばれるようになり、つまりそれがヴァーチャルとリアルが融合した瞬間でした。その後「めけラヂオ」なるライブ配信番組で今までアメブロで書いてきた音楽や映画の話、料理の話、ライブ会場で出会ったアーチストの応援なんかをするようになり……こうしてnoteにたどり着いた。

 めけめけの本質とは、つまりはヴァーチャルとリアルの融合体たるペルソナであり、なぜ書くのか、書けるのかの問いは「めけめけ」にしたところで、最初から「めけめけ」は書いていたので、答えはないのです。ゆえにめけめけは嘘をつく。なぜ書けるかという嘘を。

 なぜ僕が書けるのかと言えば、それは会社が倒産して暇を持て余していたとき、自分の精神を安定させるために書きなぐっているうちに書けるようになった。だから――あなたも一度、それまで当たり前だったものを失い、ひとつの部屋に閉じ込められる毎日を3か月ほど続けたらエッセイでも小説でも書けるようになりますよ――というのが真なる答えなのです。

 闇だね。

 つまり非日常に追い込まれた僕は、そこで正気を保つために小説を書き始めた。その非日常にはリアルな現実から逃避する日常であったかもしれないけれども、ちょっとした出会いをきっかけに闇落ちせずにいられた。
 そしてなんだかわからない退屈な日常を逃避するために集まった人たちの集団、山作戰のファンの人との交流を経て「めけめけ」というキャラクター、或いはペルソナを召喚できるように僕は変化したのです。

 ペルソナは抑圧された内面(シャドウ)の裏返し。めけめけが書いている小説の非日常性は、むしろめけめけそのものが非日常のキャラクターであるからこそ書くことができる「あたり前」の世界の出来事。
 めけめけが楽しく小説を書いているときは、妄想世界に入り込み、目の前の現実を少し歪めて見ている。

 それが本質。

「本質理解をしないと何もできない」とは僕自身の仕事や人間関係における「基本的理念」に相当し、原理原則と行動原理の理解がなくして「最適解は求められない」と考えるがゆえに、本質を理解さえすれば、表現方法が多少歪んだり、奇抜であったとしても、言いたいことは伝わるのではないか——この仮説の実証作業が僕にとっての「書くこと」なのかもしれません。

『傘がない』という初期の作品では実際に傘を盗まれた体験から「氏んでしまえばいいのに」というミーム的言語を逆手にとった怪奇譚を描いています。

 そこから『下駄の男シリーズ』が生まれ、自称「拝み屋」の怪人物「尾上弥太郎(おがみやたろう)」が活躍する怪奇譚は、そうした現実にある理不尽を呪術を用いて解決する物語は、僕が好きな夢枕獏の『闇狩り師』の影響を色濃く受けている。つまりこれが手本。

 初めて執筆した恋愛小説『土曜日のタマネギ』は、当時アイドルだった斉藤由貴さんの曲を改めて聞いたときに見えてきた男女の機微――電話一つでいらない女になってしまうような男女の関係――をおもしろ可愛く、そして切なく描いた作品です。
 これは昔は気が付かなかった歌詞の深い意味やシチュエーションを掘り下げることによって、流行り歌に隠されている仕掛けを紐解く試み。
 物語のシチュエーションにはどこか懐かしいメロディが流れてきます。

 またインディーズアーチストとの交流の中で生まれた『朔夜~月のない夜に』は、新月で月が見えなくても僕はずっと君を見守っているよという内容の『朔夜』という曲から「狼男は新月に恋人を抱きしめる」という発想を得て書きました。これはのちにラジオドラマとして1年間放送していただきました。

 1720年のフランスを舞台とした赤ずきんと狼男の恋愛怪奇譚。もともと歴史が好きで、魔女裁判や疫病、当時作られ始めたマスケット銃のことが描かれています。また、この狼男は中央アジアの文化圏からの流れ者という設定や中世ヨーロッパの政治と宗教を取り上げたあたりは田中芳樹の影響かもしれません。

 あと短編が大好き。実際に書籍になったのは、エブリスタのコンテストで入賞した怖い話の短編集。

『お部屋探し』という不動産物件のちょっぴり怖い話。

 どんな作品も書き始めたときにはテーマ性なんかまるで考えていなくて、書き終わることになんとなく、ああ、自分はこういうことが書きたかったんだと自分の作品に教えられることが多いので、僕はテーマを持っていなくて、めけめけという物書きは最後までそれを教えてくれないといった感じです。

 これがポートフォリオになるのかどうかわからないけれども、書くことと音楽を作ることとはまた違った付き合い方があって、めけめけが作る音楽というのは常に自分以外の誰かが演奏したり歌っているのを想定して作っている感じ。僕自身がその曲を演奏して人前で歌っているというのがどうもイメージできない。つまるところ物書きとしてのめけめけよりもキャラがぼけているのだと思うのだけれども、より言語化が難しい。強いて言うのであればそのとき気持ちがいいと思ったものを曲にしにしてるのだと思います。

 

 この曲は不倫カップルが初めてクリスマスを過ごすというシチュエーションで、男女の掛け合いを想定していたのだけれども、出来上がった曲はどうとでもとらえられるようにしているのと大好きなクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』のように組曲のようにポップスを作ったらどうなるかという実験をしています。だから構造が変。

 書くことも音楽を作ることもバンドをやることも僕にとってはライフワークで一生付き合うつもりでいる。たくさんの人に読んでもらったり聴いてもらえるのはきっとうれしいことなのだろうけれども、その喜びはまだまだ先でいい。好きなことを好きなように書きたいとめけめけが言っている以上、それ以下でもそれ以上でも今はない。

 ただ、僕が作詞をお手伝いしたこの作品はたくさんの人に聴いてもらいたい。

 Magical Monkさんとはそこそこ長い付き合いですが、お会いしてゆっくりお話ができたのは1回だけ。彼の音楽がとても好きだったのでこのアルバムの1曲目にしていただいた『Mirage』の作詞を依頼された時は一つ返事でお受けして、たぶん1時間くらいで初稿ができたと思う。
 今まで作詞した中でもかなり気に入っています。ぜひ聴いてほしいなぁ。

 noteが最初の出会いではないのだけれども、松永ねるさんとは、今後も面白いことができたらと思ってます。基本、コラボレーションするのはウェウカムで相乗効果なんてあってもなくてもいいので、面白ことができれば今はそれでいいと思っています。
 もちろん、上を目指さないというわけではなく、試したいことをあれこれやってからそれは考えればいいと思っています。

 彼女に影響されて、僕も8つ折りの本を作り始めました。いいと思ったものは何でも盗んじゃいます。


8P折本は名刺代わりになる

 ご近所の居酒屋にこちらのディスプレイで限定無料配布中です。第1弾はすぐになくなってしまったので、現在第2弾配布中。

 誰からもまだ何の感想も聞いてはいませんが、昔は「読んで感想言ってくれたら一杯ご馳走する」なんて言ってましたが、それって「本音なの?」って僕は思っちゃうタイプだと知っているのでいたしません。
 でも感想は大歓迎。批評はさらに大歓迎。批判はしてもいいけど僕の耳には特別なフィルター装置がついているので問題ないです。すべて励みになります。ただ、へこむことはないのでそれを期待しても無駄です。

 ここに至るまで、いろんな人からアドバイスをもらったりヒントをもらったししてきました。今後もそうだし、いつかその集大成的な作品を作ることになるかもしれませんが、どうやらまだ先のようです。世の中にはまだ知らない面白いことがたくさんある。

 そう思える僕はたぶん、ずっとめけめけに創作を任せて好きにさせて、いずれ僕が僕として、つまりは本名で何かを作り、世に送り出す日が来るとするならば、今日ここに書き記した内容は、はたしてめけめけが来たのか、僕が書いたのか、その本質が明らかになるのかもしれませんね。

『死んでからも本は出る』

 僕の好きな言葉です。

 まぁ、しかし、このポートフォリオを読んでもらうよりも焼き鳥を食いながらホッピーセットを一緒に呑んで語り合えば、そのほうが手っ取り早いだろうなというのが、僕という人間だと思います。それは自他ともに認めるところ。

 ポートフォリオよりもポークフロスの味のほうが興味ある


ポークフロスとは、豚肉を使った「でんぶ(田麩)」。肉のかつお節


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