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アンチテーゼ~人が好き。だけど人が嫌いって?

 僕は果たして、人が好きなのだろうか?

 52才という年齢で改めて自分に問うてみる――僕は生まれてこの方、人が嫌いとは思ったことがないし、人は好きだ。

 否、人を好きだと思っていたい、そういう自分でありたいと思っていたのではないだろうか。もしかしたら本質的に人が嫌いで、それでは世の中生きにくいので好きであろうと思い、嫌いにならない努力をしてきたのではなかろうか?

 この問題提起に行き当たったのは、この記事を読んだからなのですが、簡単に説明すると、とても素敵な方です。ShinさんもAiさんも。音楽で繋がり、Shinさんとは同じステージに立ったことがあります。

 なんというか憧れることができる大人でしょうかね。

 彼らの言葉には真実があり、光や愛があります。真実なんてものは、正直人の数だけあると僕は思っているのですが、ゆるぎない真実というのはしなやかで強く、外圧では折れたり、曲がったりするものではないし、常にアップデートしていくことで、純度が上がる、または精度が、練度が上がるものだと考えています。

 つまり過去の真実など、今ある真実に比べれば、さして気にすることではないと、まぁ、ようやくそう思えるようになってきたのですが。

 さて、”好きは 本質 嫌いは 思考”というAiさんの言葉に、僕は結構衝撃を受けたというか、ああ、そうだったと思いだしたというか。

みんな忘れてるだけ
色んなモノがくっついて
色んな思考が絡まって
色んな観念にしばられてね

本来の輝きを思い出すことで
魂についたホコリが祓われて
輝きだすよ

 シンプルなことなんだけれども、忘れたことを思い出すのって簡単ではないですよね。

 幼少の頃の僕は、公園に一人で遊びに行って、他の子供たちに”この玩具貸してあげるから、一緒に遊ぼう”って声をかけて、友達を簡単に作っていたそうです。

 自分に与えられた玩具(おそらくブリキだったり、スコップやボールだったのでしょうが)は、1人で遊ぶよりもみんなで遊んだ方が楽しいって、小さいころから知っていた。

 そして冒険心――僕は目を話すとすぐにいなくなって、だいたい汽車を観に線路そばに行っていたそうです。大人たちには相当心配をかけたようですが、流石にその頃(函館で生まれ3歳までの話)の記憶はありませんが、それが僕が持って生まれた自分自身の在り方なんでしょうね。

 関東に引っ越してきてからは近所に同年代の子供がおらず、5歳で保育園に通い出したころには、すっかり一人遊びが得意な子供になっていて、そのころから妄想壁というか、仮面ライダーやウルトラマンのソフビを使ったり、粘土で怪獣や宇宙船を作ったりして遊んでいましたから、突然団体の中に放り込まれて、どう接していいのかわからずに、ちょっと面倒な子供になっていました。

 小学校に上がったばかりの頃も、あまり学校にもなじめなかったというか、遊び方が違ったんですよね。みんな野球が好きで、僕はまるでやり方もしらなかったから、いわゆる”味噌っかす”になっていたんですけどね。

 高学年になるころには、野球も覚えてみんなと楽しく遊べるようになっていました。何か特別なきっかけがあったわけではないんですよ。本来の自分の姿を取り戻したんのだと思います。

 冒険心も取戻し、よく学区外まで自転車で行って、そこで新しい友達ができることもあれば、喧嘩をすることもありました。そうやって輝きを取り戻した僕にとって中学時代はもっと楽しいものに成るはずだったのですが、ここでまた引っ越しというイベントがあって、まったく知らない集団の中に飛び込むことになったのですが・・・

 僕はいじめやその他、諸々の問題を乗り越えて受験勉強と不良と呼ばれた連中との付き合いを両立する稀有な存在になっていたので、悪い意味で大人たちに重宝がられて、PTAの会合なんかに呼ばれて、ああ、大人ってこれだから嫌なんだって思ったものです。

 さて、一気に飛ばして高校、大学と僕は僕であり続けられたかというと、そうでない時期もありましたが、必ず復活してきました。つまり、自分を思い出すことができた。

 もっと言ってしまえば、”自分は何があっても立ち直れるって知っていた”でしょうかね。妄想は僕を度々救ってくれました。そうやって内側と外側のやりくりをしながらここまで生きてきたわけで、妄想は僕にとっての創作の源であり、音楽をやるにも、小説を書くにも欠かせない僕のパーソナリティです。

 そして人との付き合いに前向きであることも、大事なパーソナリティです。SNSを始めてから実際にそのつながりからバンドを組んだり、イベントを開催したり、人生について語り合ったり、助け合ったり、そういうことについて、僕は貪欲ではありませんが、それを愉しく思う心――面白い事(玩具)があったら一人で遊ぶよりもみんなで遊んだ方が楽しいという生まれながらに持っている性分は、今後も変わることはないでしょう。

 しかし、結婚して子供ができた直後は、まるで他との付き合いをしていなかったのも事実。人生の長い道のりの中では、家庭や仕事に身を置いて無我夢中になる時期も必要です。それはもう、どうしようもなく遺伝子がそうなっている物だと思うのですよ。

 だから

 その時期が過ぎれば再び思い出して、しかもアップグレードしていくんですよね。その感覚と言うか、精度というか、強度というか。

 人は好き。だけど人は嫌い。

 知識と経験を得た僕は、短い時間で他人との共感を深めることが可能になります。それはすなわち認知力の向上ってことなんでしょうが、よく知るというのは共通理解にとって重要なことでもあり、また邪魔をすることにもなり得ます。

 何故ならその人のいいところもわかれば、悪いところもわかってしまう。それは欠点とか弱点とかいうよりも、自分の思考に合わない、自分のやり方に合わないという意味で理解していただきたいのですが、つまるところ嫌いの根源は僕の思考にあるのだと気づいた瞬間に、放っておけばいいと結論づけられれば、余計な摩擦、ストレスは回避でき、場合によっては時間や環境が解決してくれることもあるわけで。

 それを思考で気にいらないから、そこは治すべきだと首を突っ込みだすと経験上、いいことになった試しが少ない(稀にあるが、それは僕のしらないところで何かの作用があった可能性も否定できない)。

 僕はどこか天邪鬼なところもあり、やはり大きな声で”人が好き”とは言えないです。ただでさえ、道を歩いていると人に道を聞かれ、走っていても聞かれ、音楽を聞きながら歩いても聞かれ、そこが初めて訪れた場所でも聞かれるのです。

 他人からいい人だと思われることほど、恐ろしいことはない。

 僕はそうなると、その期待に応えなければならないと思ってしまう癖がある。でも、頼ってもらえたら、正直うれしいのです。人が嫌いなわけがないじゃないですか(笑)

 なので僕みたいな乗せられやすいタイプは”実は人は嫌いなのです”としていた方が、生きやすかったりするのかなと、最近思い始めていたのですが、ああ、思い出しちゃいましたよ。

 僕はやっぱり人が好き。

 こちらの記事をお読みください。僕が言わんとしていることがもっとわかりやすく乗っていますよ。

 僕も、かくありたいです。

 そして僕が大好きなお二人の曲、マザーアースにKISSしよう/B Generation

All you need is love
All you need is love
All you need is love
Love is all you need

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