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嫌いだったバレーボールと仲間という言葉

競技としてのバレーボールを辞めてもうすぐ5年ほど経つが、私は小学生だった10歳から社会人9人制バレーへとシフトした27歳までバレーと共に生きて来た。というのはいささか言い過ぎのような気もするが、私の人生にバレーは欠かせないものになったと言えるのは大人になってからだ。

私は「仲間」という言葉がよく分からなかった。どういう時に使うのか、どんな人たちのことを指すのか…一緒にバレーをしている人たちは友達ではなく仲間なのだろう、くらいの漠然とした印象だった。そしてどうしても香取慎吾さんの出ていたドラマの西遊記が出てきてしまう。
仲間仲間連呼するような人は偏見なのだが正直好きではなかった。そんな私が最後のチームで出会った人たちは、今でもとても大切な存在で、紛れもない「仲間」だ。

バレーを始めたきっかけは、身長が高かったことと、母親がやっていたこと。本当にただそれだけだったので、私はいつバレーを切り離そうか常に考えていた。しかしそこまで絶望的に下手という訳でもなく(決して上手くはないのだけれど)身長もぐんぐん伸びて中学生にはもう170センチ程になっており、鹿児島県の片田舎の中学では、それだけで戦力のようなものだった。
そこから身長のおかげと言っても過言ではなく県選抜に選ばれてしまい、当たり前のように高校からは推薦の話が何校からも来た。しかし高校では自分で続けるか続けないかを選びたくて推薦を全部断り一般受験をしたのだけれど、結局押し切られる形でバレーをだらだらと続けていた。
本当に、だらだらと続けたという言い方がとても合っていた。そのだらだらは、なんと大学まで続いた。

大学受験をする際、高校では普通科でもなかった私がなんとか国公立大学に行く手段として私はバレーを選択した。
本当はバレーをするとすればもう楽しいだけでよかったのだけれど、2歳上の兄が私立大学に通っており、大学進学を勧めてくれた両親にとってはなんとなくだけれど公立の方がいいのだろうなと思っていた。そうやって奇跡的に進学できた国立大学のバレー部で、私はやっとバレーのおもしろさに気づいた。

きっと、そのバレー部がそこそこ強かったのにも関わらず厳しくなかったというのもあるだろう。先輩後輩も厳しすぎない距離感。また体育館が狭くて練習時間が限られているおかげでバイトもしていた。よく遊ぶこともできた。同じリーグにいる他大学からすると本当に異端だったと思う。
そんなこれまでと違う自由な環境が、少しずつもっと上手くなりたい、もっとバレーがしたいと思わせてくれた。

大学までだらだらと続けたバレーを、就職する段になって初めて「まだ本気のバレーがしたい」と思った。それは全日本インカレが終わった4年生の12月のことだった。
そこで、私は2歳上の先輩が就職していた9人制バレーチームを持っている会社に飛び込んだ。9人制は知識として知っている程度だったがこれまでの6人制バレーでバリバリやっていけるような技術もないので、バレーができるなら正直どこでもよかった。そこは介護の会社だったのだけれど、介護なんてできないと思っていたのにも関わらず入社を決めた。

そこで出会った、特に大切な4人の仲間がいる。4人は同年代ではあるが年齢も性格もバラバラ。ただ唯一同じだったのは、目標が「日本一」だったことだった。

私は基本的にインドアだし、昔から漫画や小説、ラノベばかり読んでいたオタク気質だ。中学高校大学と、いちばん仲の良い友人たちはバレー部ではなかった。同じバレー部である人たちとは部活の時だけの存在であり、つまりバレーをしていなかったら出会っていないであろう人たちばかりだった。

社会人になって出会った仲間もそれと同じく、バレーをしていなかったら交わらないタイプの皆さまだ。
それでも、なぜか当時の会社を全員辞めた今でも交流があり、仲良くさせてもらっている。この人たちだけは、胸を張って「仲間だ」と言うことができる。それだけ共に濃い時間を過ごしたからなのだ。

当時クラブチームの全国大会であるクラブカップでは2連続で3位に終わっていた私たちは、どうしたら勝てるのか、今の自分たちに何が足りないのか、後輩たちの気持ちを上げるにはどうするかなどをよく話した。それはたまに飲みに行くと顕著で熱いバレーの話ばかりしていた。全員が違うポジションだったので、納得いかないプレーがあれば全体練習後によく自主練もした。
仕事ができない人にバレーで結果が出るわけがないと、別々の部署でもそれぞれ率先して一生懸命に働いた。バレー部に振られるボランティアだって全力でやった。すべては日本一になるためだった。その考えがみんな根本にあったから、バラバラの年齢でも個性でもまとまっていた。

そうやって過ごしていく中で私が入社した3年目、最大の目標であったクラブカップ優勝を果たした。本当にこれまでの人生でいちばん嬉しい出来事だった。
優勝という結果はもちろんなのだが、このチームでここまでできたということが本当に嬉しくて、この先これ以上嬉しいことはないと断言できるくらいだった。
余談だが、このクラブカップの決勝戦で私は膝前十字靭帯を切る怪我をしてしまい、そのまま引退も考えた。しかしどうしてもまたこの仲間とコートに立ちたいと思い復帰までこぎつけた。

そうして思ったのは、私はきっとこれまで「この人たちとは相容れない」と決めつけていたのかもしれないということだ。
高校時代、もちろん春高インターハイを目指していたが万年2位だった。1位の高校には3年間どうしても勝てなかった。どうせ勝てない、そう思い込んでいた。最後の試合で負けても涙が出なかった。
同学年は私の他に10人いたが、どんな気持ちで臨んでいたのか知らない。というか、そこまで深く話したことがないから分からないのだ。実はキャプテンをやっていたのになんて酷い奴だと自分でも思う。
当時はひとつになるというこの感覚を知らなかった。そんな私が、クラブカップ優勝の際には「このチームで優勝できてよかった」と思えたことが、自分でも驚いた。
これまで、仲間になろうとしていなかったのは自分だったのだ。

スポーツは、かけがえのない仲間と出会える。
しかしそれはスポーツをしていれば勝手に出会えるわけではなく、自分が本気にならないと”かけがえのない”仲間とは出会えない。

いつバレーを自分から切り離そうか悩んでいた学生時代の自分に、ここまで続けてくれてありがとうと言いたい。そうでないと今の大切な仲間に出会っていなかったのだから。

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