人生の自分語り

 フロイトはかつて、こう言った。

「生きることの意味について問いかけるようになると、我々は狂ってしまう。なにしろ、意味も価値も客観的に実在するものではないのだから」

 なるほど確かに、そうだと思う。人生の四分の一をようやく終わらせた、自分のような若輩がこの意見に共感を抱くことに、疑問を感じるかもしれない。自分でもそう思う。今までは、そんなことは頭の中に浮かぶことすらなかった。今思えば、”何も考えない”ということは、とても幸せで、良いことだったのだろう。
 だが。唐突に話題を変えることを許していただきたいのだが、この春で私は大学三年生になり、つまり就職というものが視野に入ってくる歳になった。となれば、履歴書を書く必要があり、何を書くのかが問題であった。
 そうして、”今まで自分が成してきたこと”を知るために、私は自分の人生を見つめ直す機会を得た。これが幸か不幸かは、今は知る由もない。

 さて、過去の情景に思いを馳せていると、自分の中の希死念慮が暴れだすのを感じる。高校に至るまで、少し心の面で苦労していたのだが、周囲の理解と投薬治療に助けられ、今となってはそこまで、だ。しかし、面白いもので、私はその苦労していた時こそが、自分が”生きていた”瞬間だと感じている。
 受講した哲学の講義で、印象に残っている言葉がある。古代ギリシアの哲学者であったソクラテスは、

「ただ生きるのではなく、善く生きることが最も大切だ」

 と残した。”善く生きる”とは何かということだが、正しい解釈や解説は、おそらく書店に置かれている本で、哲学研究者の先生方が述べられていると思うので、自分が思うことを書いてみる。
 それは多分、品行方正に生きることではないだろうか、と思う。不正を侵さず、間違った行いを嫌い、目の前にある課題に真摯に取り組み、人の為に生きる。
 もちろん、他の道徳的な解釈もあるだろうが、単純に、私はそう感じた。

 では、私は”善く生きた”のか。答えは違う。私はこれを機に、自分の人生を見つめ直して、思考した。浮かび上がってきたのは、中身のない、すっからかんの人生だった。
 私はよく、「真面目だね」という他者からの評価を受けた。自分ではそんなことはないと思っていたのだが、それがいつしかアイデンティティとなり、精神的支柱になっていた。
 大学へ入学してからも、そういった評価を受けた。だが、考えてもみてほしい。大学に入学するような人間が、”真面目でない”のだろうか?
 そうだ。当たり前だったのだ。私を私と決定づける、個人的なアイデンティティは、全く個人的なものではなかった。それは普遍的なもので、全くといっていいほど、私のアイデンティティではない。

 クラブもやっていない。スポーツもやっていない。サークルに入ってもいない。趣味は広く浅く、深くは潜らず、好きなものもコロコロ変わる。私は、他者からの評価に甘んじていた。「このままでいい」のだと、心の何処かで思っていた。その結果は見ての通り。私は何者でもない。何者にもなれていない。すべてが中途半端で、個性すら曖昧な人間だ。今ですら、こうして稚拙な文章で駄文を書いている。

 私は、思案している。冒頭に述べた通り、生きることの意味について。そしていつも思うのだ。自分の人生は無価値で、意味のないものだったのだろう、と。
 

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