失われた初期の日向坂46に寄せる,コンテンツの懐古主義に対する妄言

多くのファンが指摘するように,初期の日向坂46の楽曲(「キュン」,「ドレミソラシド」など)から供給されていたハッピーオーラは,現在の表題曲で得ることは難しい。9thシングルカップリング曲「恋は逃げ足が早い」など,一部のカップリング曲が発表されると,これが表題曲であるべきだ,とする意見が出る。我々は日向坂46の雰囲気を,野村陽一郎によってあまりにも色濃く植え付けられてしまっているのだ。それくらい,初期の日向坂46のハッピーオーラに元気付けられた人が多かったのだろう。

ファンはコンテンツの型の変化を嫌う。
コンテンツの需要者(消費者)は,あるコンテンツの集合に対し,自らの好みに合致した時点で制作者を好みだし,ファンになる。
そのように「ファン」になった経緯から,自らの好みの範疇に属さないコンテンツが同じ制作者から生み出されると,求める型にそぐわない,期待とは異なるものだと認識し,批判的になるのだ。

一方,制作者の側は,時が経つにつれて制作するコンテンツの様式を徐々に変化させていく。一定期間同じ様式の,同じ型のコンテンツを生み出し続けるタームもあるが,確実に変化を伴う。なぜなら,同じ型のコンテンツだけを産み出し続けていても,一つのマージンを食い尽くすだけで,成長が望めないからだ。裾野を広げてより多くのファンを獲得し,成長し続けるためには,既存のフォーマットによって釣り上げたファンとは異なる餌場に対して,新たに釣竿を投げ入れる必要がある。

往々にして,ファンによって過去は美化される。もしくは,懐古厨が存在するのは,その時点で好きになった者たちが,変化に乗り遅れた結果なのだ。
全期間を通してコンテンツ制作者のことを応援し続けることができるのは,コンテンツ制作者を崇め奉る精神,一種の宗教的な信仰心を獲得できた熱狂的なファンのみだ。

コンテンツの受容社,消費者としての我々は,一過性のコンテンツの形式を求め続けてはならない。似たような形式のコンテンツを求めて制作者に対して抱く期待は,同じ制作者に向け続けるのではなく,類似の匂いをまとった別の制作者によって発散するべきだ。

幸いにも,コンテンツ過多の情報社会で我々は,こうした機会を得られる可能性が非常に高い。制作者が生存可能性を高めるために取る方針に敬意を払い,変化を批判する精神ではなく,我々のアンテナを広く張り巡らせる方法が,受容社としての我々の持つべき姿勢なのかもしれない。

変化に適合できなくなった時点で,人類として衰退する側に回ってしまう。我々は,過去の方舟を乗り捨て,次の方舟を見つけ乗り継いでいかなければならない。もちろん,過去の方舟を応援し続けることも重要ではあるが。

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