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無意識の汚染を謝罪で予防する


昨日、Twitter上でしばしば絡まれているTOKRASさんとライブ配信を行った。ライブ配信中、話題に困ったときのためにTOKRASさんやぼくに対する質問をTwitterで募っておいたのだが、その中に「これだけはしないようにしようと自戒していることはありますか?」という質問があった。ぼくはそれに「無意識をなるべく汚染させないようにする」と答えた。

「無意識を汚染させない」とは何か?

「無意識を汚染させない」というのはぼくのイメージであり、メタファーの一種である。この言葉だけでは、配信を聴いている人はぼくが何を言っているのかよくわからないだろう。どう説明したものか?

昨晩の配信時にも、何かしら説明をしたはずなのだが、実際になんと説明したかはもう覚えていない。だから、こうしてnoteで改めてちょっと説明しなおしてみることにする。

意識と無意識

人には意識と無意識がある。意識は自覚できている精神活動。無意識は自覚できない精神活動。ざっくりそんな風に大きく分けてもらえればいい。意識と無意識は互いに協調しながらぼくたちが毎日生活するのを助けている。

ぼくは意識のことをよくスポットライトに例える。芝居のステージの上でスポットライトをあてられた役者が演技をしている。観客もその役者を見ている。だが、スポットライトが当たっていない影の部分にも別の役者がいて、暗がりに目を凝らせば何かしら演技をしているのがわかる。でも、普通はそこには目を向けない。このスポットライトが当たってない部分が無意識である。

今、こうしてあなたはぼくの書いた文章を読んでいる。あなたの意識はぼくの文章の意味を把握したり、そこから自然とわいてくる連想に向けられたりする。一方、今、まさに座っている椅子の感触や、手に握っているスマホの感触については、こうして話題に出されるまでは忘れていたかもしれない。話題に出されることで自覚され、無意識領域から意識領域へとその感触は移動する。

意識はすぐに忘れることができる。「自分の家の住所を言ってください」このように要求されれば、すぐに自分の家の住所を口に出して言うことができるが、そのように要求されるまで自分の家の住所を頭の中で自覚的に唱え続けていたわけではない。記憶として何らかの形で無意識に収められているが、自覚はされていない。つまり、忘れている。普段は、ずっと忘れていて、その記憶を自覚する必要がある時だけ思い出して意識する。

無意識領域には、様々な記憶、認識、感情、思考がある。それらを全ていっぺんに自覚することは不可能だし、その必要もない。いちいち自覚などしなくても、無意識領域にあったまま自動運転で仕事をしてくれる。散歩をしながら考え事をしているとき、考え事に意識が向いているが、足は無意識的に勝手に動いてくれているはずだ。このように無意識は私たちの生活を自覚できない形でサポートする。

自分に嘘をつく

意識はすぐに忘れることができる。先ほど、そう述べた。自分にとって都合がわるいこと、胸が痛むこと、見つめたくない現実。そういったことをすっと忘れて意識に上らないようにすることで、意識は一時的に楽になる。

だが、無意識はそう簡単に忘れない。心の奥底に押し込められて意識に上らなくなったことも、無意識の片隅にあり続け、いずれ腐臭を放ち始める。短期的に見れば心を楽にすることであっても、長期的に見れば、無意識を汚染し、継続的な心理ダメージを与え続ける。

「自分に対して嘘をつく」というのもまさにそういうものだ。

たとえば、本当は自分の方が悪いと心の底でどこか思いながらも、「自分は悪くない」「あれは仕方がないことであった」「あんな風にふるまわせる相手の方がもっと悪かった」そんな風に自分に言い聞かせて、一時的に自分の意識の安定を図る。

そのようにして、自分の意識を騙せたとしても、無意識までは騙しとおせない。無意識には罪悪感が蓄積されていく。日常生活の中でその罪悪感が刺激されるような出来事と出会ったりすると、急にコントロール不能な激しい感情に突き動かされて愚行を繰り返す。意識に上ってこようとする無意識の罪悪感と、それを抑え込むために生じる反動的な感情がせめぎあうからだ。それはだいたい、他者に対する激しい攻撃性となって表れる。

自分に落ち度があるときには自分自身のために謝る

ぼくのワークショップでは「謝罪のワーク」を行うことがある。現在、もしくは過去に自分に落ち度があって悪いことをしたのだが、まだ謝ることができていないという事柄を一つ取り上げ、ペアを組んだ相手にその状況を説明したうえでその相手の役をやってもらい、その人に向けて真剣に心の底から謝ってみるのだ。

このワークを実際にやってみるとわかるが、非常に胸が痛む。苦しい。真剣に謝るということは、自分自身の落ち度、非を心の底から認め、受け入れるということだ。無意識に押しやっていた罪悪感の居場所を意識にも作ってやる。謝罪のワーク中に涙を流す人もいたりする。

だが、不思議なことに単なるワークにも関わらず、真剣にこのワークに取り組んだ後は心がスッキリと軽くなる。ずっと気にはなっていたが、触れないでいたものをきちんと処理できたからだろう。

夏休みの間、教室の机の中に置きっぱなしにしていた弁当箱を恐る恐る開ける感覚に近い。開けた瞬間は強烈な腐臭が漂うかもしれないが、一度、開けて洗ってしまえばホッとするし、スッキリもする。「ああ、教室に弁当箱置きっぱなしだけどやばそうだなあ……」という不安を抱え続ける方がつらいものだ。

このように、無意識に押しやった都合の悪い記憶やネガティブな感情などが、知らず知らずのうちに負荷となって日々の生活に悪影響を与えている状態を「無意識が汚染している」と呼んでいる。

極力、無意識を汚染させず、日々を軽やかに楽に生きるためには、自分に非があると気づけたことについては、なるべく素早く、謝っておくとよい。謝罪は相手のために行う側面もあるが、それ以上に、自分自身の無意識をなるべくクリアに健全に保っておくために行うのだ。

その点において、謝罪とは、自分の無意識との適切なつながりを保ち、自分の罪悪感に適切な居場所を作ってやるための儀式だといえる。

悪くないと思うときに謝ってはいけない

ぼくは謝罪を2つに分けている。心の底から自分に非があると思うときに、真剣に謝る「ガチ謝罪」と、本当は自分に非があるとは思わないが何らかの必要に迫られて謝る「テクニカル謝罪」だ。「演技謝罪」と言った方が正確か。

ぼくが重視しているのはガチ謝罪の方である。ガチ謝罪ができないまま、テクニカル謝罪だけを身につけると、自分の非を心の底から認める儀式が行えなくなってしまう。「とりあえず謝っておく」という行動パターン自体は持っているが、「この件に関して自分にはどのように非があるのか?ないのか?」ということをストレートに見つめて把握することができない。なんでもかんでも適当に謝っているために道理がよくわからなくなる。

「どうも無意識にたくさんの重荷を抱えているようで辛い」そんな風に感じる人に対しては、一時的にテクニカル謝罪の使用を極力控えてもらって、常にガチ謝罪をしてみることを勧めている。

ガチ謝罪では、自分の行動のうちで本当に非があった部分についてどのように非があったと認識しているのかをきちんと言葉で説明した上で謝ることになる。そして、自分が心の底から本当に悪いと思っていること以外は決して謝ってはいけない。

謝罪のワークでこういうケースがよくある。

謝罪ワーク中の様子を見ていて、ちょっと気になることを感じたぼくがこう質問してみる。「今、謝っていることについては、本当に自分に非があって自分が悪いと思っているのですか?」問われた人はしばらく考え込んでから「ああ……思ってないですね」と答える。そこでぼくが「自分が悪いと思わないことについては一切謝らなくていいですよ。自分に本当に非があるということを謝罪のテーマに選んで、謝ってみてください」こう伝えると、その人は再び考え込んでから「なんだか変な汗が噴き出してきました」と驚いた顔で伝えてくる。

真のガチ謝罪にはパワーがある

本当に自分に非があると思うことをきちんと特定し、それを口に出して相手に伝えたうえで、心の底から謝るというのは真剣勝負である。相当負荷が高い。だから、多くの人は、自分でも気づかぬうちに、自分がたいして悪くないと思っている部分をとりあげて、そちらについてわざわざ謝ってしまう。そのような自己欺瞞の雰囲気は謝罪の相手にも伝わる。なにか空虚で軽いのだ。

一方、真剣勝負の謝罪には迫力がある。謝罪を受け取る側も大変な圧を感じる。本当に自分の心の奥底と繋がった言葉を発している。本当に悪いと思っていることを悪いと伝えてくる。腰の入ったガチ謝罪を行える人間は、それだけで人間関係の主導権を握れる。謝罪をした結果、人としての度量を有無を言わさずに示すことになる。

無駄な謝罪をしたくないからバカな言動をしなくなる

自分の無意識を汚染させないよう、常に自分に非があると思ったら必ず謝ると自分に対して決意をすると、思わぬ副産物が生じる。

ガチ謝罪というのは非常にストレスがかかる。できる限りそんな気の重いものはしたくない。でも、自分に非があることをしてしまったら、ガチ謝罪をしないわけにはいかない。かといって、自己欺瞞によって自分の非を覆い隠そうとすると無意識が汚染してしまう。

その結果、後で謝る必要が出てくるようなバカな言動をわざわざしたいとは思わなくなるのだ。そして、実際にしなくなる。本当に心の底からそう思っており、そう口に出すことに問題がなく、その発言の責任を引き受けられるし、引き受けたいと思える。そういうことだけを言うようになる。発言だけでなく行動も同じだ。

自分の言動の責任を引き受ける覚悟を持って生活するようになると、やはりそこにある種のパワーが生まれる。そのような人の言葉を周りの人々は重視するし、そのような人の行動を周りの人々は支持する。

無意識を汚染させないようにするとは、自分の言動の全てについてきちんと責任を引き受ける覚悟を持つことだ。謝罪をすることもその一つの表れに過ぎない。

そうすることで、日々、楽しく、健全に過ごすこともできるし、人からも好かれやすくなる。こんなにコスト・パフォーマンスの良い生活習慣は他にないかもしれない。

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