一年かけたが音楽に救われたのか分からない
12/23、北海道まで行って大好きなバンドのツーマンライブをみた。そこで私の2023年の全てのライブが終了。
何もすごくないが自分が周りの人より多くライブに行っていることは分かっている。
その分だけ音楽に救われたのだろうか。
夏に大きく全てに苦しくなった時に一週間仕事も家にも行かず知らない土地に行った。でも死ねなかったからある今の命のことを思うとその時聴いた音楽に救われたな〜なんて考えたが、音楽なかったら死んでたのか、そこに強く頷けない。
大好きなバンドのライブに行ったって客層が気になってしまう時があるしそれが増加と質の悪さが右肩上がりなことを体感しては、もう馴染めていないこっち側の方が質が悪いのかもしれないとか思う。
音楽があっても希死念慮に襲われる夜がある。ライブに行かなくても心が安定している夜がある。
こんなことばかり考えている。これが結果だ。
救われたって何なのだろう。きっともっと純粋で衝動的なものだとは分かっている。でも考えすぎの私の頭では分からず“音楽に救われる”という言葉が呪縛のように聞こえる。何本ライブに行ってもずっと楽しく純粋な愛の形を持っている人を見ると自分が情けなくなる。回数でもなんでもなく人間性の話だから。
特に今年は自分の生活が苦しかった分それが心に引っかかることが多かった。
もう分からないからみんなが大好きな“音楽の自由な受け取り方”って言葉で安易にまとめてくれ。
まあ、こんな文章いくらでも書ける。
事実として今年も音楽を聴いてライブに行きCDを買って遠征して。
再生ボタンを押し続け生活をした。何度落ちても今日まで生きることを続けてきてそれを語るには音楽が必要だった。
生きてるだけじゃ偉くないけど、
生きることは音楽なのかもな。
こういう気持ち、一生部外者音楽評論家みたいな人に分かられてたまるかよ。と思い絶対に流行らない自分語りnoteに綴っている。
もう今更音楽で人と繋がりたいなんて思っていないし、音楽が好きなら分かり合えるなんて信じられる心の域を超えてしまった自分がいる。
ただこういう私のnoteを下まで目を通してくださる方には興味がある。これは何本書いても思うこと。
2023年おそらく最後のnote。もしかしたらひとつ下書きを出すかもしれない。
またこれからも、ああこの人は苦しくなって音楽聴いて無責任だって感傷を言葉にぶつけて生きづらそう、、そんな感じで見ていてくだされば有り難いです。ありがとうございました。
来年、あなたも私もなるべく音楽なんてものに救われませんように。
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