「社会」って誰なんだろう
教育関係の仕事をしていると、「これからの社会に求められる人になろう」という言葉をよく耳にする。
この社会って誰なのだろうか。社会に求められるってなんなんだろうか?とこの言葉に昔から違和感を感じている。
「社会から求められている」と聞くと、私は意地っ張りなので、そんな求められることだけで生きたくないし。求められることに応えたくて生きてるわけじゃないし。求められてるという枠にハマりたくないし。はみ出したいし。とぶつくさ心の中で思っていた(自分でもこんな自分がめんどくさくなる)。
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ぶつくさ言わずに、今日はこの「社会に求められる」という言葉をあれこれ考えてみようと思う。
得体の知れなさに違和感。
自分が高校生の時も、働いている今でさえも「社会」とはなんなのかがわからない。その得体のしれないものに「求められている」という意味合いが私の中で違和感を作っているんだろうな。う~ん。違和感というか知らないことからくる怖さに近いのかもしれない。
「社会」には顔があるらしい
自分の頭だけではなんだかまだ未知なので、家に眠っていた紙辞書を引っ張り出してみた。
「生活を営む人々の集団」と言われたらなんかイメージできてきた気がする。
社会をつくっている人の「顔」が見えるとなんだか安心してきた。一人ひとりなんだな、自分もなんだなって。得体の知れなさが軽減されてきた。「社会」は人々の集団で、一人ひとりいるってことなんだな。
「社会」を「人」に言い換えて考えてみる
はてさて。社会の顔が見えてきたところで改めて「社会から求められる」って言葉を考えてみよう。
社会に一人ひとり顔があるのなら、社会を言い換えられるのでは?とふと思った。
同じコミュニケーションという言葉でも人が変わるとニュアンスが変わってくるように感じますね。
そうか、「社会」って正体不明な存在しない何かではなく、その先に人がいるんだな。正体が見えると違和感もなくなる。
「社会」とか「みんな」とか、便利な括るワードはときに違和感を与える。その違和感を晴らすには、一人ひとりをイメージするとだいぶすっきりするんだな。
言葉を考えた末にたどり着いた今日の気づきでした。
(イラスト : さいとうのぞみ)
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