サステイナビリティの価値がしっくりきた話


これまで、サステイナビリティについて学んでみたことはあったけど、いまいちしっくりきていませんでした。


「サステイナビリティな社会とは何か」っていうそもそもの定義の部分があいまいなのに、サステイナブルな社会のために「民主主義の制度を担保しましょう」とか「男女平等のために働きかけましょう」とか「貧困を無くしましょう」とか、方法論としてのアクティビズムばかりが出てきているのを目の当たりにしてきました。


ここで違和感になっていたのは、サステイナビリティっていう言葉だけが一人歩きしていることと、その言葉を人々が独自に解釈して、バラバラなアクティビズムが生まれてることでした


ただ色々考えた結果、ここで価値を見出すべきなのは、「サステイナブルな社会」という理想そのものよりも(この理想はあくまで理想で、実体はきっとないし、想定する必要もなくて)、サステイナブルな社会を目指そう!ってみんなが思う→みんなが行動を起こす、というアクティビズムのほうにあるんじゃないかって思いました。
サステイナブルっていう言葉がなかったら、こんなに大勢の人が声をあげることがないかもしれない。


だから。

サステイナビリティっていう言葉そのものが何を指すのかじゃなくって、その言葉やそういう規範が広まったことによって、より良い社会を志向する人たちが自ら行動を起こしていること。その行動、アクティビズム自体に価値があるんだと思いました。


しかも、ヨーロッパではそういう動きが実際に生まれやすい風土があることが、すごいんだと思いました。


さて、日本は、サステイナビリティという言葉を名目化させずに、単なる付加価値に成り下がらせずに、真にその概念に伴う価値を享受することができるのでしょうか。



おまけ:中国のファイヤーウォールについて


ヨーロッパとか日本からすると、GAFAMを使うことが当たり前すぎて、中国を見たときに「人々の自由を侵害して、GAFAMの使用を認めないのは人権侵害だ!」なんて意見がありますよね。


確かにわたしからもそうみえることもありました。


でも国内のテクノロジーを育てるという意味で見たら、中国はファイヤーウォールを設けることでアメリカ発のテクノロジーを遮断し、自分たちの国家と強く結びつく企業、そして膨大な国内市場を使いながら、独自のテクノロジーを育てようとしている、とも考えることができました。


まるで、かつての発展途上国で、外国産の製品の輸入を制限しながら、自国の産業を保護しつつ育てていた国があったように!!


いまや育てる対象が重工業とかじゃなくて、テクノロジーに変わったということか、、、!
と思って、自分でハッとしたので書き留めておきました。