真顔になる権利はこちらにある
同期の立花が会社を辞めた。
それからしばらく経ったある日、森本に、立花の送別会に「行った?」と訊かれた。
訊かれるまで私はその送別会の存在を知らなかった。
立花が会社を辞めた。
まあ、退職自体はよくあることだ。
立花には、休日遊ぶような、仲の良い同期の社員がいた。
彼は会社と関係ない立花の地元の友人とも遊んだというから、その関係性の濃さたるや尋常ではない。私は休日にまで会社の人と会おうとはなかなか思わないのだが、まあ仲が良いことは結構なことである。
まあ兎角、その送別会もくだんの仲の良い同期が企画したのだろう。
私とくだんの同期は、会社での席も近いし、仕事内容も近い。話す回数も必然的に増える。
きっとはたから見れば仲が良いし、実際そう悪くもないはずだ。
だから森本は私に、送別会に「行った?」と訊ねたのだろう。
だが、先述の通り、私は訊かれるまで会の存在を知らなかった。
「送別会?」と私は答えた。
私の回答を聞いた森本は真顔になり、「えっ」と声を漏らした。
そのやりとりのせいで、私はひどく腹を立ててしまった。
会に呼ばれなかったことが嫌だったわけじゃない。
気分爽快! とはならないが、そういうのは往々にしてあることだからだ。
そもそも私と立花は休日――彼は休日の交流にも比較的積極的だった――に遊ぶほど仲が良いわけではなかった。
それに、部署が同じとか、組織図的に近い部署同士だったということもない。
だから呼ばれなくても腹を立てる道理はないし、「あー、そっか」ぐらいで終わらせたい話だった。
むしろ私にとって腹立たしかったのは、なによりも森本の反応である。
彼の真顔は、「あ、やっべ……」と思ったからこそ出たものだったのだろう。
しかし彼はそもそもどうして真顔になったのだろうか。
私の推測はこうだ。
森本は、送別会に呼ばれること、すなわち仲が良いことやそう思われることに価値を置いていた。
だから、送別会の存在を知らされた私が「ハブられた」と思い、そしてきっと腹を立てるだろうと考えた。
それに付随して起こる諸々も含め、彼は「やっべ……」と思い、その表情に至ったのだ。
嫌じゃないの? と彼は表情で私に問いかけていた。
そこでは、同じ価値観、価値基準の存在が想定されていた。
相手にも同じ価値基準があると思い込むのは、誰しもが――これを書いている私自身も――陥る誤謬である。それを咎める権利は誰にもない。
ただ、その価値基準を信じるならば――私はこう主張したいのだ。
ならば、森本よりむしろ私のほうに、その事実を知ったときの衝撃はあって然るべきなのではないだろうか。
そして、そうだとするならば、その衝撃ゆえに真顔になる権利は、私のほうにこそ有るのではないか。
だのにそれを差し置いてなんだ貴様その真顔は! と。
私より先に、そんなすごい速さで真顔にならないでほしかった。
そんな顔をされたら、私はどんな顔をしたらいいか分からなくなるから。
※彼の名誉のために言うと、彼はこのあいだ「誕生日おめでとう」って言ってくれたからたぶんすごく良い奴だ。まあ、2ヶ月遅れだったんだけど。
【今回の一曲】
菅田将暉/さよならエレジー(2018年)
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