プロメアの話、あるいはクレイ・フォーサイトへのメタ目線での省察

やあ、それなりにプロメテック炎人をやっている感じのオタクです。
不幸な事故を防ぐために前提を連ねておくと、

・女性向け同人をたしなむ。カップリングはガロクレ、リオガロ、メイゲラを中心に好みに合えばなんでも読む。
・あまり物事に詳しくないし教養もない
・考察に関して脇が甘い
・芸能人に詳しくなく、かつ初見では何も調べずに見たのでエンドロールに至るまで松山ケンイチ氏と堺雅人氏のCVを取り違えていた(確か松ケンってデスノートのLだよね? ぐらいの認識)
・spoon.2Di(vol.53)の、プロメア特集記事の内容に多大に触れている。(問題あれば適宜改稿・削除いたします)
・ときどき口が悪いかもしれない。

ということです。おわかりいただけただろうか。
おわかりいただけたのなら、ちょっとこの脳髄からあふれる思考につきあってほしい。


 ――これは、偶然によってありようを決定的に変えられたとあるキャラクターの話だ。

「プロメア」という映画の”クレイ・フォーサイト”と呼ばれる男の立ち位置というものは、本来さほど気宇壮大なものではない。
 いや規模からしたら壮大なんだけどその内面がわりとベタなワルを想定されていたとおぼしきことが先日のspoon.2Di(vol.53)のプロメア特集、中島かずき氏(脚本)と今石洋之氏(監督)のインタビュー記事でなんとなく察せられる。
 バーニッシュになってしまったことをきっかけに救世願望に取り憑かれた愚かな科学者くずれ、ぐらいがその実情であった。このご時世にそのベタさ加減しょっぱない?! みたいな感情は脇に置いておく。ともあれ彼は本来打ち倒されるための機構に過ぎず、たいした人間性を設定されてはいなかったと思しい。
 しかしそこに疑義を挟み、ひとりの人間として構築を試みた者がいる。
 キャラクターボイス担当の堺雅人氏そのひとである。詳しくは映画パンフや他でのインタビュー記事などを参照していただくとして、彼はクレイの軸に、一言でいうなら「自己嫌悪」を置いた。それは物語のクレイには本来存在しない、謎めいた種である。

 ということで本編を鑑賞である。(余談だけどスクリーンで見るリオ編のゲーラお顔めっちゃかわゆ!?って思った)
 なるほど台詞は小物だ。優しげな声も長くはもたず、悪辣な面が出てきたあたりからは酷薄に響く。本心から高圧的であり、ガロを疎んでいるともとれる。だがそれも上っ面にすぎない気がする、と感じる受け手が出てくる。その奥に何か、何かもうひとつありそうな。
 種は芽生え物語からの逸脱が始まる。船が浮上してから巨大ロボ戦を経ながら、種は育ち役割にヒビを入れ逸脱は大きくなる。ほんのわずかずつではあるが、それは物語のテンションに紛れて気づかれない。

 そして初めて炎を見せた時の語りで種が花開く。
 ここでクレイは役割持つ物語の要素としては決定的に破綻し、生を得るのだ。

 どこに笑声などあろうかという絶叫で紡がれる言葉には哀しみと苦しみが宿っていて、悲痛だ。推測にすぎないが、本来は「自分の方が強大だぞなぜならコントロールできてるから」ぐらいの衝撃事実開陳! であったろうそのセリフは、おのれの生を呪う慟哭に化けた。
 画が間に合わなかったため声を先録りしたというエピソードも存在の破綻に拍車を掛ける。この叫びにどうやって得意満面の表情などつけられよう?(実際、笑っているように見えるけど実は笑ってないのでは、ぐらいの顔をしている気がする)
 その悲痛さを保ったままガロに人命救助当夜のことを語るものだから、見ている方としては何が本当か完全にわからなくなる。
 ここはおそらく素直に読めば「クレイは英雄的行為などしていなかった!」という大ショック真実の暴露であり、それに対するガロのシンプルな怒りというやりとりだ。(そう読むとガロが「てめえ」呼びなのがすっと通る)
 だがすでに言語と音声の連携が破綻しているために真相は不可知の彼方へ溶け落ち、我々にただ高まりゆく場の緊張だけを残して次のシーンへと続く。

 あとはもう逸脱し破綻し続けていくのみである。語りも吐息ももはや小悪党ではありえず、そこにただ人間が現出する。
 弱く愚かで凡の凡々、とも呼べそうなそれらは受け手の心を揺らす。弱さは人間にあまねくあるが故にクレイを悪と割り切ることができなくなる。
 そして救済はよりいっそう余韻を増し、最後のシンプルな一言で安堵という感情を手渡され、受け手は希望をそこに見る。
 ……実は、この最後のセリフにおいて確実に存在している、と思っていた感情である「安堵」が中島氏インタビューでの発言になかったのが、一番私がひっかかった部分である。
 だがそれはそうだ、大元の物語にそんなものはなかった。私が魂に受けたのは再現性のない異形の花であり、声の魔術、演劇の奇跡の一端なのだ。
 これを受けられたことを、初見から三ヶ月も経ってようやく気づけたのだ。

 そして、クレイに人間性を見いだすと連鎖的にガロとリオにも解釈の変化が及ぶ。
 ガロは単純明快なヒーローから繊細さを合わせ持つ賢明な職業人に、リオは理想を語る巫術の使い手から等身大の少年に。かくてボーイミーツボーイは群像劇へと様変わりし、セカイ系(君と僕の関係性で紡がれる世界の変容)から近未来系アクションSFと化す。この映画の感想が人によって大きくブレることがあるのはここだ。見ている世界そのものが変わってしまう。
 だからこの映画は私にとって、ひとつの空恐ろしくも魅惑的な体験である。

 最後になるが、クレイをどうしようもない、かつしょーもないやつと思うのは間違いではないというかそっちが「いわゆる正解」に近い気がする。たぶん脚本とかコンテの段階で意図されていたことだからだ。
 けれど、そこにそれ以上を見いだした者がいる。そして見いだした者が響かせる絶叫に情緒を引き裂かれ、その裂け目に同じく”人間”を見た者がいる。ちょうどプロメアとシンクロするしないがあるように、人の個性が出る部分なのでそれが「いい悪いではない」。そこは強調しておかないとまた無用な争いが起きるので。
 ともあれ彼はそのようにして《キャラクター》としては破綻し、人々を惹き付けてやまぬ《概念》となった。
 なにぶん物語の中においては破綻しているので人によって解釈が無限に出てきてしまう(一意的な解がそもそも存在しない)のだが、それは概念としてご長寿になる要素のひとつである。長期連載とかにいたりするよね。

 ――かくして男は役割を越え、遥けき遠くへ跳ぶ。


雑に結論(敬称略)
・堺雅人って すげー!
・クレイのことを考える時、我々は堺雅人とシンクロしている……!?

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