見出し画像

2022.3.14 諦めたくない先に描くもの

本日最終出勤日。
これからの生き方に目を向けて、今思うことを書く。

この2年間、痛いほど思い知ったのは「お金がない」「この組織では無理」と諦めた先の影響力の弱さかもしれない。
それぞれの事業には、目指したい規模、みたいなものがおそらくあり、その目指し方は様々だが、何にせよ、売上が立たないことには、目指すことはできない。
その売上を立てるために、特にtoCで必要なことが「ブランディング」。
「あぁ、ひょうたん揚げの会社でしょ」
「秋保にある、おしゃれなカフェだ」
「季節限定パフェが食べられるところだよね」
こういったユーザーからのイメージがある企業ほど、販促は行いやすいので、目指す姿への達成も近い。

売上をあげるために、地方の中小企業がとる施策は「商品ラインナップを増やす」「商品の質を上げる」などの取り組みが多い印象がある。もしくは先述にも近いが「良いものを作れば、何もしなくても売れていくはず」。
勿論、良いものを作れば、売れると思う。結論どんなプロモーションより、良い商品の土台は外せない。
商品の質が低ければ口コミで負ける。ただ、この質もある一定まで行くと「一般ユーザーは違いがわからない」の域に達する。

逆にこの域まで達したときは、その先の進化は企業の目指す姿に帰するような印象がある。こだわりを貫くも、そうでないも、その企業次第というか。
しかし、やはり「質」にばかり重きをおくと、どうしてもその良さを「知ってもらう」活動へ投資できる範囲が限られてしまう。
結果「お金がない」が理由で「ブランディング」がうまく機能せず「いいものを作っても売れない」という着地に至ってしまうのではないか。

また「この組織では無理」も類似の状況に近い。その諦めの感情がヒト・モノ・カネ、いずれのフェーズにおいても「チャレンジ」を妨げる。
その結果、大きな変化を得ることが出来ずに「消化不良」な成果だけが残ってしまっているような気がする。

しかし、いずれの場合も「チャレンジ」が伴うために、地方中小企業はその波に乗りにくい。お金がなくとも、守らなければならない従業員や家族がいる。もちろんこのままではいつか終焉を迎えてしまうわけだから、どこかで腹をくくらなきゃいけないわけだが、失敗した先に待っているのは、その企業の寿命が縮まる結果だ。地方中小企業は失敗をカバーできるほどの余力はない場合が多いだろう。
私は外の人間だから、チャレンジシなくては変わらない、ブランディングを行わなければ、結局大手や競合他社に負ける、など、簡単に理屈を述べられる。しかし、口だけ出してても何も意味がない。言われた側も言った方も「分かってるよ。でもできないんだよ」という諦めムードがまん延するだけで、ちっとも前進がない。
口だけにせず、自分自身も諦めずに立ち向かいたいというのが、今回の退職の理由の1つだ。

同じく、自分にとっては諦めた先の答えだと感じていることのひとつに「足ることを知る」という感性がある。
過剰がいい、といいたいわけではなく「別に満足しているわけじゃないけど、それ以上は贅沢できないから」と諦めた先に発言してはいないか、ということが私は気になるのだ。
地方を生きていると、先述の通り、お金がない、仕事がないなどの理由で、お給料が伸び悩みがちだ。どんなに仕事ができても、ある程度年功序列が働くケースも依然として多い。
あとは地方独特のあたたかみ、身内感も気になる。
大きな範囲で語られる世間や社会に疲れた人が、息をしやすい場所を求めて地方にうつり、ささやかな助け合いの中で生きること。または「このまちにしかないもの」は「そこにいるひととのつながり」だ!という考え方を楽しめる人ばかりが、地方での暮らしを満喫できるような感じ。その上で「地方にはそんなにお金は儲からないけど、でも色んな人と助け合って、楽しく生きられるよね!」みたいな空気感。
いずれも、それが悪いと思っているわけではない。
ただ、その考えを持つ人口の牌(パイ)はだいぶ限られているだろうに、そこに振り切ってよいのか?という疑問が残るのだ。
そして、小規模集落にも大都市にも振り切れない、中途半端な地方の郊外などはその人の温かみを感じられる空気を作り出すことができるのか?と考えたときに、現時点の私は「無理だろう」と思っているのだと思う。

もっといえば、先述の話にも絡むが、そうやって手の届く範囲にしか、関わりを持たなかったときに、結局与えられる影響力の少なさ(小さな幸せの限界)に私はショックを受けているのだと思う。
小さな幸せもとても大切だし、私も日々の中でそういった喜びは大切にしている。昔はその連鎖で多くの人を幸せにできると本気で思っていた。
しかし、小さな幸せを続けること、連鎖させることにもお金はいる。そして、「大好きなまちをなくしたくない」という思いに報いろうと思った際に、小さな幸せだけでは解決できないことが山ほどあるんだと、この2年で思い知らされたのだ。

メモ
できればパンフェアのような小さな幸せの魅力を活かしつつ、大きな範囲で様々な方に興味を持ってもらえる取り組みを実践する。

まとまりのない話になってきたが、私がこれらのことから思うのは、私は地方でも諦めによる「足ることを知る」の考えに染まらずに、そして「身内感」に囚われずに生きたいのだ。
良い部屋をつくって、良い朝ごはんを食べて、会いたい人に会いに行くにはお金がかかる。ならば、我慢したくないから稼ぎたい。
人と交わることは好きだけど、そこばかりが強調されるまちでは、私は性格上、生きられない(だって陰キャだから!つながりを非常に重要視する生き方には振り切れない!)。

カフェでコーヒーを飲んでいても個人が特定されない田舎がちょうどいい

稼ぐも、稼がないも自由に楽しめる、趣味とプライベート、どちらでも自分を大切にできる、あの人たちがいるからこのまちがすき、友達はいないけど、このまちにいる自分が好き、幅広く多様化した、ある程度都市感も残るまちが田舎にもあってもいいじゃないかと思う。

まずは自分がそういった「都市らしい」生き方を実践すること、そのうえで、小さな幸せの良さも取り入れながら、大きな範囲に携わることもできる事業を作っていくこと、この2つが当面の目標である。

それはきっと、地方の郊外でしか逆に実現できない姿のような気がする。そう思うと、これから行くまちで暮らす日々が楽しみに感じてくる。

春から新しい生活がはじまる。
地方で生きる、地方で働く、地方中小企業のいち員になる、いずれも私にとっては諦めではないし、その選択による我慢だってできるだけしたくない。
我慢しなきゃいけないなら、この選択を選ばなきゃよかったと思いたくないから。

きっと偏見にみちみちた考え方だろうなと思いながらも、さめざめと書く。今の自分の考えの整理のために。

ほんとにほんとにありがとうございます…!