26歳 4月
「悲しみがないと創作物は生まれない」というが、私も同じく、自分の中のダウナーな部分が表に出てこないうちは何かを書こうという気持ちになれない。
草木の美しさをその影に感じたり、春の匂いを夕方の暖かさに感じたり。
そういう、仄暗い自分によって感じることのできる様々な感情が自分にとっては本当に尊いものだと思う
誰かになにか言われたわけではないが、陽気で元気な自分を求められている気がして、そうやって生きていることが多い。
だから溜め込んで、噴出する。
弱い自分が出てくる。
でもそうじゃなくて、電車に乗って、散りかけの川辺の桜を眺めながらアイスコーヒーをすする、そういう時間を過ごすことで、ダウナーな自分でいることで、溜め込まずに結局バランスが取れるのだと思う。
なるほど、休みのとり方が下手くそになったと思っていたが、単純にぼんやりベタな私が、ぼんやりする時間を失っていただけかもしれない。
仙台に帰ったら、回復するのだろうかと心配していたが、割と元気になってきている。
そういえば、彼と付き合っていたときはこうやって息抜きをしていたな。私はいつも目先の感情で大事なことを忘れている。
最近は何か喋らないと元気がないと思われる気がして、一生懸命喋っていたな。
喋らない時間の尊さをしみじみ。そういえば喋らないと構って欲しがるときがあるな。あれもまた可愛いところだなあと思う。
仙台で一番好きな公園はどこかと聞かれたら、迷わず錦町公園と答える。
この公園で過ごす歓びを知れたことは、河合塾に通ってよかったと思う理由の一つかもしれない。
もうすぐまた養父での暮らしに帰るし、またきっとおちるのかもしれないな。
どうせうまくやれないし、そこそこにやろう。
うるせえと思うときはうるせえという顔をしていよう。
田舎と都会どちらにも自分の居場所を感じられるのは得だなと思う。どちらにも居場所がないとも言えるけど、居場所なんて曖昧なものはその程度だろう。
休みの日に但馬に閉じこもるのはやめたほうがいいんだろうな。知り合いのいない街に行って、コーヒーを飲もうと思う。
ほんとにほんとにありがとうございます…!