小さな高校生の大きな挑戦 ― 大島優子に会いたい!ー②

3、ひたすら考える日々...(12月〜2月)

このアイデアもまた、世の中から見れば、実現するのはむずかしい、ましてや高校生がつくるなんてとうてい無理だろうと思われるようなアイデアだ。ペットボトル1本の水をiPodよりも高く売れと言われているようなものである。
しかし、不可能かと言われると、必ずしも不可能ではない。
ここで例に挙げた『ペットボトル1本の水をiPodよりも高く売れ』という難問、普通はペットボトル1本の水は130円、iPodは1万5千円程度である。コンビニで130円の水を1万5千円で売ったところで、誰も買ってくれるはずがない。当たり前だ。
では、あなたならどうするだろうか?僕ならこういうことを考える。
例えば、あなたは旅行中に砂漠のど真ん中で迷い、喉が渇いて死にそうだと仮定する。そこで、偶然にも水とiPodを売っている人が通りかかった。あなたはどちらを買うだろうか。もちろん水を買うだろう。なぜなら、砂漠ではiPodはなくても生きていくことはできるが、水はないと生きていけないからだ。
これで、ペットボトル1本の水の価値は、iPodよりも高くなった。
どんな難問にも答えがあるように、どんなアイデアでも、実現する可能性は必ずあると僕は思う。
僕はこのとき、今世の中にないものは、将来、誰かが実現させているのだろう、だったら、自分がその誰かになってやると考えていた。僕は全くこのアイデアが実現不可能だとは思わなかった。そして、本気で新しいSNSをつくろうとしていた。
アイデアを思いついたその日から、冬休み中、お正月、学校への行き帰り、授業中、ご飯を食べている間、寝る前、毎日朝から晩まで、ずっとアイデアのことを考え、思いついたことを片っ端から紙に書いていった。
このとき僕は、このアイデアの事を1日も考えない日はなかった。なぜなら、このアイデアを考え、発展させることによって、夢に1歩ずつ近づいている気がしていたからだ。そして、何よりもアイデアを考えている時間が楽しかった。
僕は一刻もはやく夢を叶えたかったし、一刻もはやく新しいSNSを世の中にリリースしたかったので、ほぼ1日ずっとそのアイデアのことを考えていた。
途中、学校の定期試験もあったが、試験勉強は最低限で、他の時間はアイデアを考える時間にあてていた。アイデアを考えるのに時間を費やせば費やしただけ、内容はいいものになっていった。
僕がアイデアを考える際に常に注意していたことは、「全く新しいものをつくること」だった。
今までに多くのサイトを見てきたが、それらには左右されずに、自分の思いついたものだけを頼りにサイトを構築していった。そうすることで、今の世の中にはない全く新しいものができあがり、多くの人たちに多大なインパクトを与えることができると考えたからだ。いろいろな機能を考えて付け足し、その後でいらない機能や、これは不可能だと思った機能などを減らしていった。
考え続けて2ヶ月、思いついたときのものに比べると、だいぶまとまってきた。枚数にすると約30枚程度。
次は、このアイデアをどういう形で発表するかだ。
ちなみに、このSNSのアイデアを知っているのは、僕を含めてプログラミングを組んでいる仲間の4人だけだ。友達にも、親にも全く話していない。
友達にこんなことを言っても、外面的には応援されるかもしれないが、内面的には、どうせ無理だろ、せいぜい頑張ってくれなんて思われるだろうし、親に話すのは、それこそ自分から穴に落ちるようなもので、あんたは大学受験があるんだから、そんなことをしている場合じゃないでしょとか言われ、強制的に諦めさせられるのがオチだ。
だから、僕は決して友達にも親にも、このことを話さなかった。
それともう一つ、僕の「大島優子に会いたい」という夢はまだ誰にも言っていない。友達にも、親にも、そして仲間にも。
仲間には別に話してもよかったのだが、仲間のうちの二人はAKB48のファンで、その二人がAKB48に会うために何かをしているわけではないのに、ファンでもない僕がメンバーの一人に会うためにものすごく努力をしているなんていうこの状況を知ってほしくなかった。
なので、夢のことは誰にも話さなかった。

4、次のステージへ、しかし、そう簡単にはいかない(2月〜3月)

2012年2月、僕は、秋元康さんにこのアイデアを提案しようと思っていた。
しかし、秋元康さんと連絡をとる具体的な方法はなかった。そもそもそんな方法が見つかるのかさえわからなかったが、一応、秋元康さんと連絡をとるにはどうすればよいのかということをネットで調べてみた。
すると、秋元康事務所というところに手紙をだしてみるといいという記事を多く見つけた。
そこで僕は、こんな内容の手紙を秋元康事務所に出してみることにした。
『僕は今高校生です。新しいSNSのアイデアを提案したいのですが、聞いてもらえませんか?』
もちろん、僕の中では本気だったのだが、単なるイタズラではないかと思われるような、ぶっ飛んだ内容だった。
僕は普段手紙なんてださないので、ポストに手紙を投函するときに、封筒に切手を貼らないまま、ポストにだそうとしていた。そこでいったんためらい、これから秋元康さんに手紙をだすんだと封筒を見つめ直したら切手が貼られていないことに気づいた。
危ないところだった。もし、切手を貼らずに手紙をだしたら、その手紙がうちのポストに戻ってきて、宛名のところに『秋元 康様』と書かれた手紙を親に見られ、手紙の内容が読まれ、親に事のすべてを知られて、僕の夢への挑戦はそこでついえてしまうところだった。
翌日、しっかり切手を貼り、ポストの前で何回もちゃんと届くか確認してから、手紙をだした。
手紙をだしてから2週間、なかなか返事は来なかった。
事務所にたくさんの手紙がきていて、僕の手紙はまだ読まれていないのだろうと勝手に思いながらも、さらに2週間ほど待った。
しかし、いっこうに返事は来なかった。やはり、単なるイタズラの手紙として処理されたのだろうか。いくら待っても反応がないので、僕は仕方なく、他の方法を考えることにした。
次に思いついた方法は、AKB48劇場に直接手紙を渡しに行くことだった。
まさか僕がAKB48劇場に行くことになるなんて思いもしなかった。しかも、僕はAKB48劇場のことを何も知らなかったので、かなり悲惨な目にあうことになったのだ。
ある日の日曜日、僕は手紙を持って、AKB48劇場に行ってみることにした。
親には本屋に行くと言って家をでた。秋葉原に着いたのは昼間、劇場の建物まで行ってみると、とてもたくさんの人たちがいた。
劇場は建物の8階。たくさんのファンに紛れ込みながらも7階まで行ってみると、なんと劇場である8階は人が多すぎて、入場規制されていたのだ。7階から8階へと続くエスカレーターから見える劇場のフロアは、見える限り、人がものすごくたくさんいて、満員電車のような状態だった。
まさかこんな状況になっているとは思ってもいなかったので、僕はそこで圧倒されてしまい、入場規制のせいで8階へ行くことはできないので、仕方なく家に帰った。
次の日曜日、今度こそは絶対に手紙を渡すぞという意気込みで、AKB48劇場が開くのと同じ時間に行けるように、朝早くに家をでた。
親にはまた、本屋に行くと嘘をついたのだが、あまりにも朝早かったので、本屋はどこも開いていなくて、後でとてもあやしまれた。
また人がたくさんいるんじゃないかとドキドキしながらも劇場の建物に着くと、前に来たときとは一変して、その日の朝は誰もいなかった。
7階まで昇ってから少しためらったが、勇気をだして8階へ。
着くと、そこは意外にもかなり狭かった。僕の頭の中では、すごく広いフロアにカフェやグッズ売り場などがあるのを想像していたのだが、予想以上に狭く、8階にいるのは、僕と受付にいる三人ほどのスタッフだけだった。こうなると逆にものすごく緊張するのだが、スタッフの人に恐る恐る声をかけてみた。
「秋元康さんに手紙を渡してもらうことはできますか?」
スタッフの人はこう答えた。
「劇場の人宛なら、手紙を届けます。」
「では、秋元康さんには手紙は渡してもらえないのですか?」
「ですから、劇場の人宛なら、手紙を届けます。」
その人の返事はあいまいで、秋元康さんに手紙を届けてもらえないのか?と思いながらも、不安だったので、僕は手紙の宛名のところに、劇場支配人である戸賀崎智信さんの名前を携帯で急いで調べ、その場で付け足して出した。
この手紙もまた、ぶっ飛んだないようだったが、出した後は、この後すぐに返事が来て、そのままスムーズに話がすすむのだろうと思っていた。
手紙を出して2週間、返事は来なかった。やはり、単なるイタズラの手紙として処理されたのだろうか。どうしようか悩んだが、今度は劇場支配人の戸賀崎さんに直接会いに行こうと考えた。そしてまた次の日曜日、再び劇場へ。スタッフの人に
「戸賀崎さんと話がしたいのですが。」
と声をかけると、
「戸賀崎さんは今日はいません。」
と言われた。
戸賀崎さんがいない!?劇場支配人なのに!?
もう少し話を聞くと、なんでかよくわからないが、戸賀崎さんは毎日劇場にいるわけではないらしい。そして、いつならいるのか聞いてみると、それもわからないといわれた。
結局、その場にいても戸賀崎さんと話ができるわけではないので、その日は諦めた。
しばらくもしないうちに、またまた戸賀崎さんに会いに劇場へ行った。今度は戸賀崎さんがいなかったときのために、例のぶっ飛んだ内容の手紙も持っていくようにした。
しかし、やはり戸賀崎さんは劇場にはいなかった。
その後も日曜日や塾の帰りなど、何回か劇場に行ったが、結局、戸賀崎さんに会うことができず、手紙も5〜6通だしたが、返事はこなかった。
なんでこんなにも劇場の支配人に会うためにその劇場に行っているのに会うことができないのかと不思議でしょうがなかった。
しかも、こんなに手紙をだしているのだから、いたずらでないことくらいわかるだろうとも思ったが、やはり、いくら待っても返事は来なかった。
僕は悩んだ。こんなところでつまずくとは全く思っていなかった。
戸賀崎さんに会えるまでまた何回も劇場に行ってもよかったのだが、僕だって高校生なのだから、おこずかいというものがある。最寄りの駅から秋葉原までの交通費も決して安いわけじゃない。今までの交通費は夢への投資だと思ってきたが、このまま何回も劇場に通うとなると、戸賀崎さんに会う前に僕のおこずかいがそこをついてしまう。
僕はしばらくの間、他に方法はないかと考えていたが、後日、握手会にはいつも戸賀崎さんがいるという情報を手に入れた。
一番近い握手会は4月8日。このまま劇場に行っても戸賀崎さんには会えそうにないので、僕は、今度は握手会に戸賀崎さんに会いにいくことに決めた。

5、やっと会えた(4月)

握手会当日。
AKB48のメンバーではなく戸賀崎さんに会いにいく人なんて僕くらいだろうなと思いながらも、朝早くから僕は会場へと向かった。
会場はとても広くて、とてもたくさんの人がいた。
今日やっと戸賀崎さんに会うことができると思いながら、目的である戸賀崎さんがいるはずのところへ行ってみた。
すると、なんと、戸賀崎さんは風邪のために欠席だったのだ。
なんて運が悪いのだろう…
今年一番といってもいいほどのショックだったが、これ以上そこにいても何もすることがなかったので、僕は何もせずにすぐに帰った。
しかし、僕はそこで諦めなかった。
次の握手会は約1ヶ月後の4月29日、そこでまた戸賀崎さんに会いにいくことにした。
4月29日。今日こそは絶対にいてくれ!
会場に着くと、戸賀崎さんはいた。
今まで会うために、何回も劇場に行き、握手会にまで行ったのに全く会うことができずに、僕の中では幻の存在となりはじめていた人にやっと会うことができたのだ。ホッと一安心。
僕は戸賀崎さんに用がある人の列のところへ並んだ。並んでいる人はそんなに多くはなかった。
僕が並びはじめたのは10時30分ごろで、戸賀崎さんと話ができるのは1人約3分…のはずだったので僕の番がくるまでにはそんなに時間はかからないはずだったのだが、戸賀崎さんにサインを色紙10枚分くらい要求している人とか、一緒に写真を撮る人とか、中には戸賀崎さんと揉め始める人もいて、結局僕の順番がまわってきたのは15時過ぎだった。
長い間列に並んでいると、列の前後で知らない人同士が会話をはじめる。僕は暇だったので、その会話を何となく聞いていると、そこではファン同士でしか成り立たない会話ばかりだった。
まず、最初にあいさつ。そして、次に交わした言葉は、どこから来たんですか?だった。
この言葉を聞いて、僕の中では、そんなの東京もしくは東京に隣接した県くらいだろうと思ったのだが、そこで会話をしていた2人は今日の握手会のために、はるばる大阪や愛知から来ていた。しかも、会話をしているうちの一人は夜21時ごろに握手会を終えて、その後深夜の電車で大阪まで帰るらしい。
握手会とは恐ろしいものだと思った。
その後はそれぞれの推しメンの話などのAKB48に関する話ばかりであまり興味の湧く話題ではなかった。
僕は並んでいる間に、戸賀崎さんと話すことの許された3分間で話すべきことをきっちりとまとめ、心の中でなんども練習していたのだが、僕の番がくるころには、朝からずっと緊張していたせいもあり、口はカラカラで、すでに並び疲れていた。
僕の前に並んでいた人が話し終わった。ついに僕の番。ここで、つながりをつくらないと、次のチャンスはいつになるかわからない。
再び緊張しはじめながらも、戸賀崎さんと話しはじめた。僕は最初、高校生のアイデアなんてまともに聞いてくれるのかとても不安だったが、それでも真剣に訴えかけた。
すると、意外にも、とてもまじめに僕の話を聞いてくれた。
あの3分間、僕は何を話したのかは全く覚えていないが、僕が書いた手紙を受け取ってくれ、資料を送ってほしいといわれ、メールアドレスをもらった。話が終わると、固い握手をしてくれた。
なんとかつながりを持てた僕は、僕の計画の中では単なる通過点にすぎなかったが、とてもうれしかった。
そして、帰って早速、資料作りをはじめた。
FLLの大会でプレゼンテーションを作って発表したことは何回もあったが、資料だけで物事を伝えたことはなく、文章だけで内容を伝えるのは想像以上に難しかった。
翌日は僕の誕生日だったのだが、そのときは誕生日よりも資料作りのほうが大事だったので、誕生日そっちのけで資料の内容を考えていた。おかげで、その誕生日の思い出はほとんどない。
2日間悩み、考えた。しかし、結局僕がアイデアを戸賀崎さんや秋元さんに伝えるためにあらかじめつくっておいたプレゼンテーションが、伝えたいことがほとんどはいっていてわかりやすいと思ったので、そのプレゼンテーションをほぼそのまま紙にまとめて、メールで送った。
それから返事がくるまでは、その返事が待ち遠しくてしょうがなく、1日に30回以上もメールをチェックした。
約1週間後、メールがかえってきた。内容は、SNSの担当務所にメールを送ったので、リアクションがあり次第、連絡をくれるとのこと。
僕は、とてもうれしく、やっと軌道に乗ったと思った。

▼小さな高校生の大きな挑戦 ― 大島優子に会いたい!ー③
https://note.com/memogoto001/n/n3029c70af227

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