自分のために

 2年前、病気になって手術をうけた。経過は良好で、再発もなく、「健康体」になった。耳の下に、「少し」傷が残った。髪の毛で隠れるし、私自身には見えない位置にあるので、まったく気にしていなかった。

 病院にいったら、医師が「傷がケロイド状になっちゃいましたね」と言った。私は、「こんなもんだと思っているし、嫁入り前じゃないから、いいです。」と答えた。そしたら、医師が「いや、医者として許せない」と言った。私は、びっくりした。すげーって思った。

 傷をなおすのは、私のためでも、病院の方針でもなく、自分が「医者として許せない」なんだな。って。自分が執刀した傷跡が、他の患者さんみたいに、きれいになおらなくて、それは、手術の失敗とかではなくて、私の体質のせいだから、その医師は、なんの「不足」もないのだれど。女性だし、顔だし、きれいになおしたい、って思ってくれたんだろうけれども。

 患者本人のわたしが、「いいです」と言ったことに対して、「医者としてゆるせない」と言ったこと、私は、それが「目からウロコ」だった。

 私は、保育の仕事をしていて、子どもに対して、「こんなふうにしたい」と思った時、園の方針とか、上司の視線とか、となりのクラスの先生のやり方とか、「保育の常識」とか、給料に見合う働き方とか、まわりのいろんなものが気になって、やるのをためらったり、あきらめたりすることがあったのだけれど。

 「自分がゆるせるか、ゆるせないか」シンプルにそれだけを考えて、行動すればいいじゃないか。

 もちろん、「暴走」しちゃいけないし、「身体をこわしちゃ」いけないし、考えるべきことは、いっぱいある。だけど、ねっこは、「自分がしたいのか、したくないのか」。「ばれないように」賢くたちまわる必要が、ある場面もあるかもしれないけどね。

 「仕事」って、「効率」とか「儲け率」とか、「社会的地位」とか、「有名度」とか。そこが「高い」ほど「良い仕事」なのかもしれないけれど。そんなもの全部とっぱらって、「自分がなにをしたいのか」をねっこにおいて、仕事したって、いいんじゃないかな?って、思えるようになった。

 手術してくれた、T先生。身体から腫瘍を取り出してくれたでけじゃなくて、私の「心のひっかかり」まで、取り出してくれて、どうもありがとう。

 

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