見出し画像

心中したいならONE PIECE

 ワンピースが好きだ。「ワンピースが嫌いそう」というパブリックイメージを逆手に取り、「こう見えてワンピースが好きです」的なギャップを演じていると見せかけて実は本当に好きなのだ。小学生の頃、誕生日に単行本を1〜10巻まで買って貰ったことに始まり、今は無き地元の東映劇場へ「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム」と同時上映だった「劇場版 ONE PIECE」を観に行った時には、最初は渋々の同伴だった父が思わず「面白いな」とこぼしている姿を見て、子供心ながらに「どうだ、ワンピースは面白いんだ」と得意になっていたことを覚えている。

 こうして父親を"こちら側"に引き摺り込んでからというもの、新刊が出る度に単行本を買って帰ってきてくれるようになり、なんとも好都合なシステムの構築にまんまと成功したわけであるが、単行本にして46巻辺り、展開的にはちょうどスリラーバーク編に入った頃だったか。金策に窮していた高校時代の俺は、近所の古本屋の「一冊150円」という高額買取に目が眩み、また作品自体への熱が冷めつつあったことも手伝って、あろうことか父の資産であるワンピースを全巻売り飛ばした上に得た金を全て自身の懐に収めるという、ナミの1億ベリーをネズミ大佐に押収させたアーロンの所業を彷彿とさせる暴挙に出る。まぁドレスローザ編でキュロスに次ぐ「忠義の男」として描かれていた自衛軍隊長タンク・レパントも、初登場シーンでは悪そうな顔で「でかい夢より おれは 足下の金を拾うのさ」と言っていたので、あの日の判断はアレでよかった。話を未来へ進めようぜ。

 ここでタンク・レパントが悪人を演じていた頃の台詞を引っ張ってくる辺り、俺が決してファッションでワンピースを愛好しているわけではない、ということはご理解いただけただろう。それからは本誌連載をリアルタイムで追い続け、バーソロミュー・くまの能力が初めて明かされた時は「ニキュニキュの実は違うだろ」と頭を抱えたり、受験期に頂上戦争で白ひげがスクアードに刺される引きで終わった回を読んだ週は、おそらく人生で一番長い一週間を過ごした。そして作品の舞台は二年後へ。あれだけ見開きで「仲間がいるよ」とか言っておきながら偽物を全く見抜けないルフィの認知能力に若干引きつつも魚人島編までは殆ど惰性に近い勢いで読んでいたが、当時入院していた病棟のコンビニで、ドフラミンゴが海を渡りパンクハザードへと迫るシーンを立ち読みした時に、自分の中の熱が再び息を吹き返す感覚を得て、また単行本を集めるようになった。そして今では俺が、新刊が出る度に父親に買って渡している。そんな自身の年代記のような作品がこの「ワンピース」なのである。

 そんなワンピースが今、最終章突入目前キャンペーンと銘打って、単行本92巻分を無料公開している。ずいぶん長い間、自分にとってワンピースを愛好しているということは「にわか」の象徴だった。長いこと「サブカル」に傾倒していたこともあり、難解で抽象的なものを理解していることこそが崇高なのだと盲信していたし、実は大して面白いとも思っていないガロ系の作品などを読んでは、不条理こそがこの世界の真理なのだとわかったようなことを言っていた。しかし、そんな折にもワンピースをジャンプで読むことだけは欠かしていなかった。「ワンピースはリア充の読む漫画」などと嘯きながら、本当はずっと心置きなくワンピースの話がしたかったのだ。とはいえ、単行本も102巻を数える超長期連載作となった今となっては、ワンピースを愛好していることはもはや「にわか」どころか立派なひとつの叡智となり、加えて長い年月の間に己の中の「サブカル」という概念も相対化され、作品の価値を「メジャー/マイナー」「明快/難解」という単純な軸で量ろうとすることのナンセンスさにも思い至ることができた。そうなれば後は話す相手だ。実際、古くからの読者はアラバスタまでは読んでいた、という人が殆どで、空島を超えてエニエスロビーまで辿り着いた人もスリラーバークに入ると大半が挫折し、なんとか頂上戦争まで持ち堪えた人も、魚人島で多くが離脱している。「空島」「スリラーバーク」「魚人島」。今になって読み返してみるとそれぞれが明確なテーマを持ち、なかなか重厚な内容に仕上がっているのだが、純粋に少年漫画的な「熱い展開」を求める場合、どこか物足りなさを覚える章であるということもまた確かだ。これら三大障壁の存在も相まって、今日までワンピースという作品を通して語ることができる機会は殆ど存在しなかった。しかし、今回の92巻分無料公開という試みにより、ワンピースは誰とでも語り得るものとなったと言っても過言ではないだろう。俺はこの時を待っていた。野心を隠して何十年も白ひげの船に乗り、意中の悪魔の実が転がり込むのを待ち続けたティーチはきっと、こんな気分だったに違いない。ならばこの"巡り合わせ"に乗じて、今回の記事ではこの「ワンピース」という作品を存分に語ってみようと思う。作品の核心に触れるようなネタバレは極力控えているので、今無料公開分を追っているよ、という人にも楽しんでいただけたら幸甚である。

 ワンピースは「海賊」の物語だ。勿論「海賊」をそのまま受け取るなら、今更何をか言わんやという話になってしまうが、作品のテーマに言及する場合、この「海賊」という言葉が暗に何を示しているかを明らかにしていく必要があるだろう。そして、その道筋はすでに第1話「ROMANCE DAWN 〜冒険の夜明け〜」の時点で示されている。

 このシーンはその後「なんて卑怯なやつらだ」と騒ぎ立てる山賊たちに「お前らの目の前にいるのは海賊だぜ」とシャンクスが返し、そこまでがワンセンテンスとなる。台詞を単純に解釈すれば、海賊とはそもそも悪人なので「卑怯」なんて言葉は意味を為さないという意味にも読み取れるが、一連の流れを踏まえて読むと「命を懸けること」こそが「海賊」であるという言葉の真意が見えてくる。そしてその推論は、早くも次の2話で確信へと変わっていく。

 のちにコビーの回想でも度々登場する、本作においてルフィが発した記念すべき初めての名言であり、なおかつ現在連載中のワノ国編に至るまで、モンキー・D・ルフィというキャラクター像を明確に規定した台詞でもある。ここがワンピースを単なる王道少年漫画ではないと自分が考える所以で、1話の引きで主人公に「海賊王におれはなる!」と野望を叫ばせた後、同じ口で「道半ばで死んでもいい」というニュアンスの台詞を言わせるのは、当時の少年漫画の価値観においてはかなり異端に属する部類だったのではないだろうか。続くオレンジの町にて、演技を使い危機をやり過ごそうとしたナミが、裏切りの証拠としてルフィを殺すようバギーに命じられた際のやりとりを見ても「海賊」が「自分の命を懸けること」であるという彼の中の定義が、揺るぎないものであることがわかる。

 そしてこの「海賊」の定義がより咀嚼されるのは、バギーとルフィの戦闘中に挿入された、在りし日のシャンクスとバギーの回想シーンである。

 バギーという男は極めて原義に近い「海賊」のイメージを担うキャラクターの一人で、命の危機となれば我先にと逃げる算段を整え、大砲を使った派手な破壊と略奪を好み、財宝への無類の執着を見せる、そんな俗っぽさが彼の最大の特徴だ。それに対してシャンクスは、主人公であるルフィのキャラクターを規定した人物の一人であることからも、ワンピースという作品が提示する「海賊像」を象徴するキャラクターと言えるだろう。そのシャンクスがここで語る「考え方が違うから別々の道を好きに行きゃいいんだ それが海賊だ」という言葉からは、海賊の「自由」という側面が、そして次の「そうなりゃ俺たちが後に海で会う時は殺し合いだぜ!?」というバギーの問いに「ああ それも海賊だな」と返すやりとりからは「選択により生じる責任を背負うこと」というニュアンスが読み取れる。そう、だからこそ命を"賭ける"のではなく"懸ける"なのだ。勝つか負けるかのギャンブルに臨むのではなく、己の野望と心中すること。そしてこの海賊観は、古今や敵味方を問わず多くの人物が共有しており、寧ろ共有していることが、そのキャラクター自身の「格」に直結している節さえある。まさに本作における「竜骨」に相当する思想と言っても何ら不自然ではないだろう。

 そして作品の土台となるこの海賊観を補強していったのが「東の海編」の中盤だ。当然対峙する敵のキャラクターもこの「海賊」に対するアンチテーゼのようなデザインのものになってくる。まずはキャプテン・クロ。彼は海賊でありながら政府や賞金稼ぎに追われる生活に嫌気が差し、平穏な暮らしを手に入れるべく三年にも渡る周到な計画を立てていた狡猾な男で、己の選択に責任を取ることなく逃げ出したという点において、先の海賊観とは理念的に真っ向から対立する敵だった。そして案の定ルフィからは、村の平穏を守るために己の命を懸ける選択をしたウソップと比較された上で「お前は本物の海賊を知らないんだ」という痛烈な批判を浴びせられている。

 そしてもう一人は首領・クリーク。圧倒的な武力と騙し討ちを背景に最強の海賊艦隊提督として東の海にその名を馳せていた男で、ウーツ鋼の鎧を身に纏い、体中に仕込んだ何百もの武器で相手を圧倒するファイトスタイルを得意としている。これらの重装備はある意味では彼が「死を恐れている」ことを象徴しており、キャプテン・クロとは違う意味で、この作品の「海賊」とは相容れない存在だ。そんなクリークとルフィの戦いについては、側で見ていたゼフが「全身に何百の武器を仕込んでも 腹に括った"一本の槍"にゃ敵わねェこともある」という印象的な台詞を残している。ゼフ自身もまた、自分と同じ夢を持つサンジを助けるという選択の責任を、己の最大の武器であった足を食うことで支払った過去を持つ「海賊」であるからこその重みを伴った言葉だ。信念を意味するこの「腹に括った一本の槍」という比喩は、数あるワンピースの名言の中でも屈指のパンチラインだと思っている。

 そして、これらの戦いで「海賊」とは「選択により生じた責任を背負うこと」であるという定義を強調した後、アーロンパーク編にてルフィは初めて、仲間であるナミにそれを負わせることになる。この時ルフィは、徹底してナミの背景を無視した。どんな壮絶な過去を背負っていようと、彼女の選択である以上は彼女の戦いであり、その間に手を出すのは筋違いだと理解していたからだ。ゆえにルフィはナミが自分から「助けて」と絞り出すその瞬間を待った。そしてナミにとってもルフィに助けを求めるということは、かつて自分が選ぶことのできなかった、ココヤシ村の人々の死という可能性を背負う選択だった。だからこそ後に「俺の仲間だと言えば村の人間は助けてやる」とアーロンに脅された際のやりとりである「ごめんみんな!私と一緒に死んで!」「ぃよしきたァ!」へと繋がるのだ。そういう意味では、アーロンパークが落ちたことでナミが自由になれたというわけではなく、ルフィに助けを求めた瞬間、既に彼女は自由になっていたのである。

 この自分が認めた相手に選択を負わせるムーブも、現在まで一貫して変わらないルフィのスタイルだ。作中屈指の名言と名高い、アラバスタでビビに向けた「俺たちの命くらい一緒に賭けてみろ!」やエニエスロビーでロビンに向けた「生きたいと言えェ!」はその代表例だが、最近でもドレスローザでレベッカに、ゾウでモモの助に、ホールケーキアイランドではサンジに負わせている。そしてこれらの行動にはいずれも絶対に自分の意志で選ばせる、という共通項がある。この「戦いの最中に責任の所在を明確にするチャプターを挿入する」という文化は、ワンピースのワンピース性とでも言うべきものだと個人的には思っていて、要は現代の任侠道なのだ。ウソップの再加入を巡るゾロの発言を見てもわかるように、とにかく「筋を通すこと」に殊更重きを置いているのがワンピースという物語であり、それを踏まえると「何を選択するか」という観点もまた、本作を理解する上では重要になってくる。

 死さえ恐れぬルフィが最も恐れるもの、それは「後悔」だ。ここは義兄弟であるポートガス・D・エースの思想的影響が色濃い。ルフィが受け入れているのはやれることを全てやった上での「死」だけであり、まだ自分ができることを残したまま果てることを彼は良しとしない。だからこそ、ローグタウンの死刑台では「わりい、おれ死んだ」と笑い、頂上戦争ではイワンコフに追加のテンションホルモンを要求したのだ。そして彼はこの「後悔」を避けるべく、己の「できること/できないこと」を本能的に理解し、常に行動と選択を最適化している。それはアーロン戦での「お前に勝てる」発言に始まり、エニエスロビーでチョッパーが言った「ルフィは始めから自分が戦わなきゃならない相手をわかってるみたいだ」という台詞からも窺い知ることができる。ルフィはとにかく読者から「変わってしまった」と評されることの多い主人公だが、個人的にはこの「死をも恐れぬ信念」「選択を負わせるムーブ」「倒すべき敵を見定める本能」こそが彼のキャラクターを支える三本柱だと思っているので、実はそんなにブレてはいないと考えていたりする。

 そしてルフィ以上にこの「できること/できないこと」を強く意識しているキャラクターがヴィンスモーク・サンジである。レインベースでのただ一人顔が割れていない状況を活かした頭脳プレーに始まり、方舟マクシムでは予め内部機構を破壊しておく周到さを見せ、エニエスロビーでジャブラに敗北を喫し罪悪感に駆られていたウソップには「誰にでもできる事とできねェ事がある」「お前がいればロビンちゃんは必ず救えるんだ」と発破をかけ、自らも正義の門を閉じることで渦潮を発生させ、海軍を撹乱した。スリラーバークでは、助けられたルフィの側にも立ち「何もなかった」と言ったゾロの覚悟を尊重し、そしてワノ国では「女を蹴れない」という自身の現実に向き合い、臆面も無くロビンに大声で助けを求めた。これらは全て、自分だけではなく仲間も含めた「できること/できないこと」を深く理解しているがゆえの立ち回りであり、彼を彼たらしめているものだ。俺は麦わらの一味の中ではサンジが一番好きなのだが、それは彼のこういった側面に由来している。

 また「過去編」が涙を誘うこともワンピースという作品のセールスポイントのひとつだが、ここにも「己の選択によって生じる責任を背負うこと」という本作の海賊観が大いに反映されていることを最後に付言しておきたい。そもそも、過去編というエピソードの存在意義自体が「どうしてこうなってしまったか」を説明するものであるため、その登場人物たちは悲劇的な結末を迎えることが構造的に運命づけられていると言っても過言ではない。しかし、そんな予定された最悪の現実を前に、ワンピースのキャラクターは笑うのだ。ベルメールも、ヒルルクも、サウロも、ルンバー海賊団も、コラソンも、光月おでんもである。なぜ彼らは笑ったのか。それは自らの致命的な選択を後悔するどころか愛してさえいたからだ。ゆえに彼らの死に様は、多くの人の胸を撃つ。そしてそれは俺にとっても例外ではなく、自著にて辿り着いた「メリーバッドエンド」という思想の原点は、このワンピースの過去編にあると言ってもいいだろう。 

 繰り返しになるが、ワンピースとは「海賊」の物語であり、その「海賊」という言葉が示すものは「己の選択によって生じる責任を背負う」ことだ。そしてこれらの要素は、レイリーの問いに対するルフィの「この海で一番自由な奴が海賊王だ」という答えに収斂していく。一口に自由といっても、ただ好き勝手に生きるということではない。生じる結果と責任を見据えた上で、全てを選択することができる者。そして他者を支配するのではなく、自らの意志で選択させることができる者こそが「海賊王」なのだと、彼はそう言っているのだ。世界一の累計発行部数を誇る漫画の主人公に、この台詞を言わせる凄味よ。ゆえに今こそ俺は万感を込めて、既に言い尽くされているであろう「あの台詞」を言いたい。

"海賊王に おれはなる!"

ご精読、ありがとうございました。
ワンピースの話、しましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?