Who killed His Majesty The Emperor?

 今、X上でにわかに「自己肯定感」が話題になっている。話を掘り下げていくとどうやら"なぜ「自分が人から大切にされる価値がある」と思えるのか教えてほしい"という内容のポストが発端のようだが、個人的な肌感覚としては「自己肯定感」という概念自体が自己肯定感の低い人間特有のものであり、いわゆる”自己肯定感の高い人間”というものは、初めから存在しない可能性が高い。一見対極のように見えるが、実は全く別の存在である"彼ら"にその源泉を問うてみたところで、我々が生きていく上で有用な知見は殆ど得られないと言っていいし、ましてや"彼ら"と自身を比べるなどナンセンスの極みであろう。そもそも、自己肯定感が話の俎上に乗る時は決まって「自己肯定感が高いこと」は良いことであるという前提で話が進められるが、果たしてそれは本当に手放しで"良い"と言ってもいいことなのか、本来はそこから検証していく必要があるはずではないか。そして実際にそのスタートラインに立ち、走り出してみると、もしかすると我々の目指すべき理想は「自己肯定感を高めること」ではないのかもしれないということが、うっすらとわかってくる。

 確かに、無条件に「自分が人から大切にされる価値がある」ことを前提に織り込んでいるような振舞いができるということは、まぎれもなく人格を否定されずに生きてきたことの証左であり、一見幸福であるかのように映るかもしれない。しかしそれは一方で、否定を経験的に知らないことから来る「鈍感」と捉えることもできる。「不安」や「自身の存在意義」といった、見なくていいものを見ずに済むという安寧は同時に、見るべきものを見落としてしまう危険と常に背中合わせだ。ゆえに、ひとたび閾値を越えて自我に危機を及ぼすような重大な出来事に直面すれば、起こった現実を受け入れられないという状況が容易に発生し得る。

 そして、現実を受け入れられない人々が次に取る行動は大体決まっている。そう「転嫁」だ。受け入れ難い現実から目を背けるべく目の前の相手や環境に結果の責任を押し付け、自身の正当性を保証する上で都合のいい情報のみを"現実"と見做すようになる。このように、自己肯定感と呼ばれるものが個人に対してもたらす効用は必ずしも良いものばかりではない。むしろ用法・用量を誤れば破滅の遠因にもなる劇薬だと言えるだろう。ゆえに、それが自らに備わっていないことを恥じる必要はないし、求める必要もない。要は"自己肯定感が低い"という欠損の認識を"「否定」を経験的に理解している"というアドバンテージに変えてしまえばいいのだ。 

 否定を経験的に理解しているということは、即ち否定を扱うことができる可能性を示している。ここでの「扱う」とは相手を否定することができる、という意味ではない。毒の組成を知ることが解毒に役立つように、知っているからこそ、それを使うことを避けることができるし、その逆を行けば相手を大切にすることもできるということだ。勿論、相手にとって何が否定されていると感じ、何が大切にされていると感じるのかには個人差があるため、最終的に想像力を働かせる必要はあるが、自己肯定感が低いからこそ、その入口に立つことができるということは強く意識していいだろう。

とはいえ、自分の存在意義に確信を持てない状態を放置しておくことは予後が悪いので、着地点としてのベストを「低い自己肯定感からの自己受容」に設定することに決め、そのための第一歩としてまずは「自己分析」をおすすめしたい。自己分析と一口に言っても、就活でやる自己分析とは少し違う。なにしろ内定第一主義を採る本邦の就活における自己分析は、企業の需要という鋳型に自らを嵌め込んでいく受動的な自己分析であり、短所を長所に言い換えたりなどといった小手先のスキルが横行していることからもわかるように、とにかく落とされないことに特化した全く現実に即していないものである。そうではなく、経験の蓄積からあるがままの自身の現状を導き出すこと、それが今回推奨する能動的な自己分析だ。

 そしてこの能動的自己分析における肝は「できること」ではなく「できないこと」の分析である。個人にとって重大な失敗の経験は人生の汚点として黒歴史化されてしまいがちだが、封印してしまうには勿体ないほどの情報的価値がそこには眠っている。共感性羞恥や精神的外傷と向き合い、どこに問題があったのかを構造的に分析することで、失敗は封印すべき汚点ではなく、経験というデータとして己に蓄積される。しかし、人間は自分の見たい現実のみを現実として認識する傾向があるため、この分析は基本的に対等な立場の他者を介することをおすすめする。自身の失敗談を他者にフラットに話すというのは相当難易度の高い行為ではあるが、最終的に収支をプラスにもっていくためには、ここが賭け所だと思っている。自身の「できないこと」を正確に理解し「できない」とはっきり主張することは"甘え"ではない。それはむしろ、精神的に自立した人間にしかできない高度な社会的行動だ。自身の無能を嘆くのではなく、無能の質を理解すること。それこそが自己肯定感の低いまま己を受容するための鍵となる。

 しかし、「できないこと」を言っているだけでは相手を納得させることは難しいので、そのための交渉材料として「できること」も用意しておく。「できること」といっても、それは必ずしも長所である必要はない、ほぼ確実に遂行可能なことであれば何でもいい。「これだけは何があってもやりきるので、こっち(できないこと)は勘弁してください」これが交渉における基本文型だ。この形の提案であれば、こちらも一定の成果を保証しているので、迷惑を掛けているという罪悪感も緩和される。これが地味に大きい。未来に起こり得る失敗を回避しつつ、自らの出し得る最大の成果を出す。例え誰にでもできるような簡単なものであっても、やっていることは立派なリスクマネジメントであり、間違いなく社会の成員に問われる資質の一つである。

 また、内容はどうあれ「失敗することなくやり遂げる」という確かな成功体験を積み重ねによって、とにかく自分の中にある失敗のイメージを消していくことも重要だ。貢献しているという意識と、成功のイメージ。このふたつさえ手にすることができれば、「大切にされている」とまでは思えなくても、「いてもいい」くらいには思えるのではないだろうか。そうやって、あるがままの自己を受容しつつ、否定の経験に基づいた他者理解を地道に試みていけば、他者から大切にされる未来だって全然有り得るし、それを自然に受け容れることもきっと、できるようになるはずだ。




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