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あの日私は

あの日、私は東京の自宅にいた。私の産まれた地方は地震が少なく、テレビで見る程度しか知識が無かった。

突然の信じられない程の揺れに驚いて家を飛び出した。家の前のブロック併が見た事無いくらい揺れていた。庭に飛び出したが立ってられない揺れだった。

這いながら必死に敷地の外に出て、このまま家が倒壊して来たら怖いと思っていたら、電線がしなり、あれが切れたら火事になる。取り返しのつかない災害が起きると、自分の身に起きている事なのに少し遠くに感じた。

女は強いと言うが本当だと思うのは、あの瞬間に玄関先で、近所付き合いの無い他人と瞬時にコミュニケーションを取り逃げる準備を自然と整えていた。全く付き合いがなくても緊急事態に備える事は出来るんだなぁなんて思った。

それからずーっと、怖くて堪らなかった。余震や恐ろしいニュースに、津波の映像。本当に死ぬと思った。インフラは大丈夫かなぁ?などと思うが、何の備蓄もなかった。

それから昼夜、余震が止まらず、スーパーは空っぽで、私は3/15に実家へ逃げ帰った。mixiくらいしか連絡が付きにくく記事で地元に一時的に帰ると連絡したらマイミクと言う制度で繋がっていた、会ったことすらない他人に注意されたりもした。

当時は絶賛無職中だし、食べ物の売っていない東京で、余震の止まらない夜が死ぬ程怖かった。しかも私はあの頃、築50年以上の家に住んでいて余震の度に家が軋み、割れたガラス窓の修理すら出来なかった。それらの事情も知らない人が私を罵るのが嫌だったが、地元の友達は皆、一度帰って来い。お金なら貸してやる。と言ってくれた。

それ以降の事はあまり鮮明に覚えていないが、地元に帰ったら、お金の無い私に皆がご飯奢ってくれたりした事と、帰る時に食べ物ないだろと、お土産に非常食をくれた事が心底有り難かった。

私は生きているから、怖かった思い出として振り返る事ができる。沢山の人が亡くなっている。沢山の人の分まで生きるしか出来ないと思っている。

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