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アッパーとダウナー、私とでダンス

自分の人生を振り返ると、割と短いスパンでアッパーとダウナーを繰り返している気がする。

それだけなら良いのだが、アッパーの時期が極めて短く、反動で来るダウナーはほとんど年単位で継続し、学校を休みがちになったり仕事を辞めたりした。

したがって、アッパーの記憶はパッと思い出せないが、ダウナーで何もしたくなくなっている状態の記憶が物心ついた頃から何度もある。思い出せる限り振り返ってみて、アッパーと反動のダウナーがどのようにやってきたのか自己分析を試みる。

小学校低学年の頃1年ほどアメリカに住んでいたが、言葉がわからないので現地校に馴染めず、とあるクソガキにいじめられたことを期に学校に行けなくなった。これは比較的分かりやすい引きこもりダウナーで、しばらく自宅や近所で遊んだり、親が遊びに連れ出したりしてくれたおかげで数ヶ月後には学校に再び行き始めることができた。

続いてのダウナーは高校に入ってからだったかと思う。中学までの勉強は内心ちょろいと思っていたため、大して勉強してこなかった。高校は違う。これもよくある話で、勉強する習慣がない私は授業についていくのが段々と困難になっていった。中学校まで英語の成績は比喩とかでなく学校一だった。日本の公立中学のレベルなので実際は大したことではないのに、私は完全に天狗だったのだと思う。進学した高校は帰国子女が大半を占めており、私の英語の能力は入学した瞬間にてっぺんからドン底まで一気に転がり落ちた。そんなことは高校に入学する前から分かりきったことなはずだったが、もう英語の勉強には手がつかない。どんなに勉強したところで這い上がるのは困難なのが目に見えているようだから。暗記科目かつ興味のある世界史、生物などはそこそこ頑張れたものの、ほとんどの授業を寝て過ごし、学校も休みがちになった。それでもかろうじて卒業にこぎ着けることができたのは、美大進学を目標に据えて予備校に通い始め、予備校内でそこそこ良い成績でいたからかもしれない。

美大予備校に通っている間の私はかなり精神がアッパーに入っていたと思う。油絵科を目指していたので、デッサンに加えて油絵を毎日のように描いていた。美大の受験では、学科試験とデッサン、油絵(専攻によってこれが彫刻だったり平面構成だったり)の試験があり、デッサンと油絵はそれぞれ丸1日、6時間の制限時間で行う。冷静に考えて6時間で油絵を仕上げるのは無茶なのだが、予備校でバチバチに絵を描きまくり、RTAのごとく早く仕上げるノウハウを身につけた私はもうなんだってよかった。ぶっちゃけ美大の学科試験はちょろい。少なくとも私にはそう感じた。高校入学以来勉強にやる気を出したことはほとんどなかったが、何もしなくとも予備校内の模試では必ず上位に入り、なんの不安もなく絵を描くことだけに没頭した。かくして私は志望した美大に合格し、入学を果たしたのだった。

美大に入学し最初の課題に取り組んでいる最中に、次のダウナーゾーンはやってきた。美大にくるやつはみんな絵が上手い。当たり前のことなのに、私はまたしても同じ過ちを繰り返した。私は頑張っても多分平均程度に絵が上手い人にしかなれない。そう思ってやる気を失った私はあることに気がついた。今まで絵を描くのが上手いと褒められていたから絵を描いていたが、褒められることのない絵を描くのはほんっっっっっっっとにダルい。私が絵を描く動機は褒められたいからだった。自分の内面にある何かを表現したいからじゃなかった。正確には、描いてみたい世界観のようなものはあったが、自分の技術が至らないので思ったようには描けず、すぐに描くのを投げ出してしまう。描きたいものを描けるようになるまで努力することもしなかった。

大学4年間はずっとギリギリの成績だった。当然のように休みがちだったが、座学のいくつかは興味深かったのでなんとか進学するだけの単位は確保し、その他実技の課題は本当の本当に綱渡り状態でなんとか卒業まで漕ぎ着けた。ダウナーでも卒業まではたどり着くの、我ながら偉いな。これは褒めてもいいところ。

卒業後3ヶ月ほどニートだった。ダウナーゾーン続行である。卒業にこぎつけるのが精一杯、就活はなんか嫌…という理由でしなかった。やりたい仕事もないまま自宅でゴロゴロ転がっているだけの毎日を送っていたが、父親にどつかれたため、できそうな仕事を渋々探し始めた。

小さい頃から生き物は好きで、ハリー・ポッターを始めとしたファンタジー小説にハマったためか薬用植物やらハーブやらに興味があり、大学からはその他の植物全般にも興味があった。この頃私はウィリアム・モリスの図案にどハマりしていたのも影響している気がする。園芸専門店とかいいかもな。短絡的にそう考えて、ネットで探した手近な園芸店に電話しまくった。するとたまたま欠員の出た園芸店にバイトとしての採用が決まったのである。

大学卒業後初めての仕事!新しい環境!私は、私にしては頑張った。アッパーゾーンの到来だ。

店舗業務というのはキツい。物にもよるんだと思うが私はキツいと感じた。まずは園芸植物を覚えなくてはいけない。こちとら丸きり素人だ。店内にある植物をメモしまくる。入荷があるたび、値付け、品出ししながら知らない植物がないか確認。植物の性質や育て方を調べては覚える。これはわりと楽しかった。今まで知らなかったことを知ると世界が広がる感覚があるから。

辛いのはテキパキ動くこと、接客、他の従業員たちのとコミュニケーション、そして繁忙期。私の動きはもったりしている。意識的にテキ!パキ!と動かないといつの間にかスローモーションになり、ダラダラした印象になってしまう。常に気を張っている状態だ。テキパキとレジ打ちもこなさなければいけない。バーコードはない。全部手打ちだ。怖すぎる。間違いがあったらいけないし、モタモタしてもいけない。超怖い。接客も大分怖かった。常連客の多い店だったので、そんな常連客の機嫌を損ねると大変である。私は人の名前を覚えるのが苦手だ。先輩従業員がいない時に、いつも通り配達お願いねと言われた暁にはもうパニックだ。機転を利かせて、念の為連絡先と住所を控えさせてくれと聞けばよかったんだろうに、パニックなのでそんなことも尋ねられず、戻ってきた先輩に客の外見的特徴をしどろもどろ説明する羽目になった。

先輩たちとの折り合いもイマイチだった。実は私は店舗業務を担当する予定ではなかったのだ。その園芸店ではガーデンデザインと施工も行なっていたので、庭のデザインをしたいということを面接では伝えていたし、その時はぜひと言われたのだが、いざ蓋を開けてみると店舗業務の忙しさに追われてそちらに触れる機会が全くと言っていいほどなかった。態度には気を付けていたと思うが、普通に不満が透けていたのかもしれない。私は不満や不快感がわりと顔に出てしまう。正直なおしたい。

繁忙期は休みが週1日になり、キリキリ舞だ。元々私はストレスが身体症状に出やすいタイプで、水泳教室が嫌で腹痛を起こしたり、先に書いたアメリカでの学校生活も、行きたくないと思うと腹痛や頭痛がしていた。繁忙期の辛さはしっかり身体症状として現れた。腹痛に慢性的な微熱、頭痛、ひどい生理痛などに襲われるようになった。1年ほど経つと繁忙期が過ぎても症状が続き、限界を感じた私は勤め始めて2年目の年末に退職した。通算勤務年数、約1.5年。南無三。

振り返りながら思うが、私のアッパーは1年も持たない。そのくせ後にくる反動がデカく、長期にわたって虚無になる。やばすぎる。

あと30年の人生振り返るのって結構大変だな。まだこの時点で私は24歳くらい、あと6年分の振り返りが残っている。

仕事を辞めた次の日から正月ニュージーランド旅行と洒落込むなどして元気になった私は、次なる仕事を探さなくてはならなかった。とりあえずの繋ぎというつもりでホームセンターの園芸コーナーでバイトを始めた。同じ頃、親の伝手である会社を紹介してもらい、ウェブデザインを勉強させてもらいながらバイトをすることになった。が、この会社、従業員が忙しすぎる。勉強しようにも、尋ねる人が皆忙しすぎる。数ヶ月、自主練的なことをしているだけで過ぎていった。ある時、会社の社長に呼び出され、グループ会社?子会社?に移ってそちらで働かないかと言われた。逆によく数ヶ月ほっといたな。もう教えてもらうのを諦めていた私は移籍することに同意した。その会社は音楽のダウンロード配信とウェブメディアを運営していて、私はウェブメディアのニュースチームで働くことが決まった。毎日大量にくるプレスリリースからニュースを選定し、必要があれば所定の形式にリライト、サイトに掲載する。音楽関係のニュースはあまり詳しくなかったので最初のうちは何を出していいかよくわからないしアーティストよく知らないしで戸惑いもあったが、慣れてくるとニュースの内容に目を通すのも楽しくなってくる。比較的知識欲はあるので、知らない世界が広がるようで嬉しいのだ。再びアッパー期に突入した私は、メディアの利用者傾向やら閲覧数やらでニュースを選定することにゲーム性を見出すようになった。狙い通りに数字が跳ねると嬉しいし、他メディアではあまり取り上げられていないアーティストのニュースを掲載してアーティスト本人から感謝のコメントが来たりすると充実感が得られた。

この仕事は比較的長続きし、最終的には5年ほどやっていたが、その間ずっとアッパーだったわけではない。特定の分野のニュースを毎日見ていれば話題や内容も偏ってくる。段々興味を持てなくなってきた。ダウナーの兆候が見え始めた頃、世の中はコロナ禍に沈んだ。祖母と同居していることもあり、早い段階から通勤をやめてテレワークにしてもらった。ダウナーに入りつつある中で監視の目がなくなったことでかなりダラダラ作業するようになった私だが、この頃はまだ時給で働いていたため収入が減ることもなく、ただ業務効率が落ちているような、雇っている側からしたら地獄みてえな人材になっていた。それに対する対策だったのかは分からないが、その後給与が歩合制になった。ニュースチームで働いている他のライターたちは皆歩合制だったのでそこに揃えただけかもしれない。歩合制ともなればニュースを出せば出すだけ収入が増えるということ。これはやる気になる。わけでもなかった。なら好都合とばかりに私は全然仕事をしなくなってしまったのだ。私が休んでも会社の懐は痛まない。会社に迷惑かけながら休むのはそれなりに心が痛むので、この状況は私が休みやすい環境を整えただけになってしまった。完全なるダウナーゾーンだ。多分勤めた5年のうち3年くらいがこの状態だった。

悶々と過ごしながらやりたいことについて考えていた。私は物心ついた時から生き物が好きだな。それはまるで関係ない仕事をしている間も変わらなかった。次の仕事はこれだ。そう思って探し始めてみたものの、動物、特に野生動物や自然に関わる仕事はあまり求人がない。あっても経験者の募集ばかりで初心者がいきなり入るのは難しい分野なのはすぐに分かった。かくなる上は…

親に頭を下げて専門学校の学費を工面してもらう!スネ=カジリ!ほんとすまねえ親。ありがとう親。親との仲が良好なのは本当に何よりも救いだ。そうでなかったら私はとっくの昔に積んでいた。

この時点で私は29歳、2年制の専門学校であっても卒業は30歳を過ぎる。まあまだ大丈夫っしょ。
入学時点で分かっていたが、周りの人間がほぼ全員10歳くらい年下だ。この年の差で、知識量や成績で負けるのは辛すぎる。体力勝負以外の分野では。体力勝負なら10年前でも余裕で負ける。

私は人生で何度目か分からんがアッパーゾーンに入った。勉強、実習。現役学生時代からは見違えるほど頑張った。社会人になるとめちゃくちゃ勉強したくなるよな?それをこの時実感した。最初の1年、あらゆるものを吸収し、コネを作れるだけ作る。全ては就活のため。目的がはっきりしている分やる気も出しやすい。だが1年目の半年が過ぎる頃には薄々感じ始めていた。私、まずい学校に入ったかもしらん。まず、担任の教員がやばい。具体的に触れると普通にどこの学校かバレる可能性があるので今回は書かないが、ミスの内容と頻度がやばい。その上ミスってもしらっとしやがる。本物の無能に私はここで初めて出会ったのか。そして私が受けていた英語の授業が、消えてなくなった。消えて、なくなった。いまだに意味わからん。これもあまり具体的に話せばどこのゴミカス学校か知れ渡ってしまうので、私の中にあるありったけの善意をかき集めて書かないことにするが、本当に不本意だ。同じ学費払っとるんやぞ。払ってるの親だけど。正直に評価するなら講師陣は悪くない。学校側のシステム、教務部などのクソっぷりが講師の頑張りを全部無に帰している。もう学校への信用は皆無、早くここから出なくては…。

学校に通い始めて2年目に突入する頃にはもうダウナーに入りつつあった。アッパーバフの効果が切れそうだ。私は1年生の秋ごろから就活を始めていた。2年制の学校では普通のことである。2年に進学する早春に企業研修に行ったりで充実はしていたが、なかなか就職先は決まらなかった。一刻も早く就職先を決めて学校を中退したかったので焦りが募り始めていた。そんな中で夏休みに入る直前、講師の知り合いの会社を紹介してもらった。これが現在働いている会社である。もう、なりふり構わず飛びついた。チャンスだ。絶対に逃すな!それしか考えてないような食いつきようで、まずはバイトとして雇ってもらえることになった。仕事を始めてすぐに思った。もう学校行かんでいいわ。仕事めっちゃ楽しい。

前回のアッパーから1年半、私は再点火した。これまでにないアッパーゾーンの頻度だ。夏休みの終わり頃から働き始め、学校が始まってもほとんど行かなくなった。もうここに就職してやるという意気込みだ。が、8月の暑い日にエグい夏風邪をひいた。38度超えの熱は久しぶりで、コロナかインフルを疑ったが、マジでただの風邪で、だがしっかり辛かった。アッパーの代償だろうか。瞬間的に頑張るとダウンするのは前々からあったので一過性のものだと考え、1週間ほど療養して仕事に復帰した。しばらく問題なく仕事をし、やはり一過性のものだったかと思った矢先の秋、人生初のコロナに感染した。想像の10倍辛い、というより何も想像できていなかった。喉の痛みが異次元で、話すも飲むも痛い、安静にしていても痛い、勝手に咳が出るからクソ痛い。こんな大激痛があるんか。しかもスリップダメージめいて継続的に痛い。また仕事にでかめの穴を開けることになってしまった。でも…これは運が悪かっただけで…わしは頑張れるんや。まだ頑張れるはず。一抹の不安がよぎるようになってきた。仕事そのものはまだ楽しめている。が…

不安はもう一つあった。職場の人と相性が悪い。なんかもう相性が悪いとしか表現のしようがない。相手も私も悪くはないと思う。だがこれは良くない兆候だ。前の仕事を辞める要因のひとつが人間関係の折り合わなさだったのだから。決定的な崩壊をしなくとも居づらくはなる。絶妙に価値観が合わず、相手を理解できないし、相手も私を理解できない。良くない。本当に良くない。そして、これは現在進行中の話だ。あまり詳しくも話せない。洗いざらい吐き出せば相手や会社に迷惑をかける。それは私も本意ではない。

年は明け2024年。年明け早々もうダウナーになりつつあった。しかし就職したいといった手前、取り下げられない、というよりまだ自分は頑張れるかもしれないという望みを持って取り下げなかった。まだ普通に、毎日仕事をして、給料を貰って、安定した暮らしをしていくことはできる。諦めるのは早い。面談の後、4月から正式に正社員として雇用されることが決まった。ようやく、ひとまず安心できる。そう考えていた。

身体に不調が頻繁に出る。仕事を始めてからずっと下痢と便秘を交互に繰り返していたが、それに加えて頭痛も起きるようになってきた。極端に寝つきが悪かったり、深夜に中途覚醒するなどの睡眠障害も見られ始めた。通勤の電車が何より辛い。段々、はっきりとしない不調で仕事を休むようになってきた。仕事に行けても、長くは頑張れない。途中で何にも手がつかなくなる。

完全なダウナーゾーンの只中に私はいる。

ようやく話は現在に追いついた。交互に訪れるアッパーとダウナーに振り回され、今なお何も解決することなく踊り狂っている。これで書ききったようでもだいぶ端折った。とにかく仕上げないと、どこかにこれを投稿する前に気力が切れて、何も出さずに終わる気がして。

それにしても自分の書いた文章を読み直すのは嫌いだ。説明的で仕方がないし、やたらプライドが高いのが透けて見えるよう。一方で感情を露わに書こうとすると臭くなる気がしてならない。変にちょけようとすると逆に滑ってるような気がする。それでも書いた。何かを、今考えていることを記録しなくては。そんなつもりで。

書き漏らしたことや、書く気が起きなくてあえて避けた話も、今後できるときに文字にしたい。
誰かの目に触れれば幸い。

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