「母校の伝統に関する勝手な思索」―完全版

※この文章は,「母校の伝統に関する勝手な思索」と題して母校の関係者各位にばらまいた文章を,個人を特定されないように修正したうえで,保存の為投稿したものです。
なお,この文章における「リーダー」という文言は,「母校の運動会において三年生だけが就けるあの役職」を基本的に指しています。2020/5/27※


2020/05/10 00:01

関わったこともない高校の先輩が,母校の伝統に関するnoteを書いているのを発見し,思わず「同士が居る」と思った。

正確に言うと,全ての意見が先輩と一致しているわけではない。
何年も前に卒業し,完全に“部外者”となったこの身で長々と駄文を綴るのは申し訳ない気もするので,しがない一般心理学徒の言葉として,インターネットコンテンツのように消費してくれれば大変助かる。

0.前提として

この文章はあくまで個人的な経験に基く個人的な感想であり,各運動会関係者さまの尽力や思い入れについて非難・侮辱する意図は毛頭ない(もしこれはよくない表現ではと思うことがあればご連絡ください。詳しくお話を伺います)。

また,この記事に関する多様な意見交換を許容する。

記事の共有を基本的に認める(元々公開していた文章のリンクは,公開から一ヶ月で切れるようになっています。在校生の方でこの文章を探している友達がもし居たらこの記事について教えてあげてください)。

必要に応じて,記事の追記をする可能性がある。その際は追記したことを冒頭で説明する。

1.自分の立ち位置
(個人情報の関係で省略)

運動会に対して当事者意識を持ち,3年間できる限り全力で取り組んできたとだけは,胸を張って言えます。

2.先輩の記事に関する所感

一番目の記事について

應援團のことを「カルト集団」という強烈な言葉で表現するのを見て,少し圧倒された。
先輩の言いたいことはとてもよく理解できるし,私も実際の経験を以て似たような感情を抱いたので,共感する。

校歌指導というイベントに関して,入学前の段階で学校側から詳しい説明はなかったように記憶している。

幸い私は入学前に事実を知っていたものの,鬱々とした気分で過ごすしかなかった。何も知らなかった人はさぞ困惑したろうと思う。

私が應援團のやるような指導方式(團員の方についてではありません!)に納得できないのは,その指導方式において取られる一連の「指導行動」の意味が不明瞭であるからだ。

先輩のnoteから内容を頂くと,

・「(教室から)さっさでろー!」と謂れのない怒号を浴びせられ…
・…前と間が空いたら「間空けんな!」と一喝
・間を空けるまいと小走りしたら「走るな!」とまた一喝…


といったこれらの要素に関して,一部の生徒が委縮する可能性のある,かつ前時代的な「ある意味危険性の高い」指導方式を採用していながら,敢えてこのやり方で指導する正当な理由についての事前説明が全くない。そのうえ,年間行事予定表やホームページなどで校歌指導に関する詳細情報を掲載しないという学校側の姿勢には,疑念を抱いても仕方あるまいと感じる。

まさか校歌の練習で失神することになるとは,酸欠状態になるとは,と驚いた生徒もいたことだろう。

私自身は持病の関係で腰を反る動作等を免除されていたが,校歌指導を経験してからは「このやり方は非効率的で絶対におかしい」という態度を日ごとに強め,校歌指導の様な理不尽な指導方式へトラウマティックに固執していった。

これは卒業後に元應援團員の方々と交流したから言えることだが,應援團員の皆さんも一人の人間であり,指導を受けた我々も一人の人間であったからこそ,校歌指導はいろんな人をネガティヴな感情に支配させたのだと思えてならない。

先輩の記事ではその後学校の校風全体に関する内容がつづられていたが,今回は應援團と運動会の2テーマに絞って執筆したいので,これに関するコメントは割愛する。

二番目の記事について

運動会の練習期間は2か月,という内容を知り,私はそうだったっけと少々驚いた。長いようで短い2か月である。

先輩の記事によると「非効率な練習が散在している」とのことだが,これはまさにそうとしか言えない。

突然だが,何故教員になるには試験を受けないといけないかというと,勿論「ひとにものを教える」能力のある人間を選ぶためだ。

ところが全国の学校における運動会などのイベントでは,同じ生徒の中から指導役が(彼らの指導力,ではなく彼らのイベントに対する熱意を指標として)選ばれがちである。

このような選抜方式では,「熱意は無茶苦茶にあるが完全に素人の指導方法で突き進む人間」が出るのも防げないと思う。

先輩の記事で「自分から立候補してリーダーになる人のほとんどは、指導者に適していないと思う」「モチベーションの低い層に無理解」という話があったが,こういうことなのかも,と思う。

勿論学校側はそういったことも想定に入れてやらせてるんでしょうから,ダンスやタンブリングや生徒指導のエキスパートに指導させず,教育・指導に関して自分達より疎い生徒から指導役を選んでイベントをやらせることに何らかの教育的効果を期待しているのだろうと推察する。

尚,このやり方が実際に教育効果を得るものかについては私は素人なので,今回は口出ししないことにする。

(余談だが,クロンバックの提唱する適性処遇交互作用の概念から判るように,個人によって適切な指導方法は異なるため,集団を画一的な指導方式で教育すれば一定数の「あぶれ」が出てしまう,というのは明白である。それだけ集団への教育・学習は難しい。)

次はタンブリングや学校伝統の体操(関係者ならこのワードで理解できるはず)・ダンスに関してだが,私は持病や運営委員の関係で競技に参加できなかった部外者なので正直あまり意見を言えないなと思っている。

しかし,自分自身も症状の弱かった小学生の頃には同様の競技へ参加した経験があるので,その経験を思い出しながら少しコメントしたいと思う。

先輩が憲法を用いて理論を展開したことには驚いてしまったが,苦役がタンブリングの正六段ピラミッドに該当するという考えには共感する。

一時期世間でも騒がれていたようなので。

続いて学校伝統の体操について。先輩の記事で「観衆から笑い声が聞こえた」というエピソードがあったが,部外者ながら私も少しこの噂を聞いていたし,辟易するばかりである。

最後にダンスについてだ。
先輩の記事では「地面に体をつける動作」を厭わないことについて批判されていたが,私個人としては,この動作が何年も使われているのは点稼ぎというより,その動作自体がかなり汎用性の高いものだからだと推察する。

とはいえ,ぬかるんだ地面に体を汚すことに対する嫌悪感は,あって然るべきとも思う。難しいテーマだ。

3.私と運動会

(ここでは執筆者の個人的なエピソードが大半を占めるので,不必要な方は読み飛ばして構いません)

私にとって,役職に就いて尽力するというのは,ある種の贖いの様なものだった。持病の関係で運動会の行進くらいしか参加できない私に,1年次の担任であった故N先生が「運営委員をやってみないか」と諭してくれたことで始まったのである。

運営委員として活動することで,きちんと運動会に参画できないことに対する罪の意識の様な思いを解消していったのだ。

運営委員としての活動はそれなりに楽しく,大変だった。何より,イベントの裏で何がどう動いており,どれだけの人がかかわっているのかということについて知れたのは貴重な経験だったと思う。

2年次では小さな部署ではあったがチーフを任せてもらい,チーフでしか学べないことをいろいろ知った。運営委員という俯瞰的な立場で運動会を見つめることで,運動会に対する様々な考え方があることも知った。

そして3年次では,故N先生に顔向けできるようにするためにも,事務系ではあったがリーダーの役に就いた。

私はもともとイベントごとには消極的な人間だったので,「運動会なんかやってらんねーよ」と思う人々の気持ちも判るし,運営委員の経験から,運動会に真剣に取り組みたい人々の気持ちも判った。

両方の気持ちを知る人間として,指導の際にはなるべく平穏な言葉,柔らかい印象の言葉を用いるよう努めてきたつもりだ(所謂「お願い形式」というやつなのだろうか)。この方式が,自分がされて最も心地よい方式だったので自然とそうしていた。

私にとって運動会は「楽しんだもの」というより「ひたすらがんばったもの」という印象が強い。

私は余程リーダーの仕事(というか事務作業)に向いていなかったのか,運動会期間中に食事が喉を通らないという事態に陥った(結果数キロ減量という危険なダイエットと相成りました)。

こういう「向いていなかった人間」として至らない点があったとすれば,当時のブロックの皆さんに心から謝りたい思いである。

おわりに―過去を肯定できないことは病気なのか

長々とお読みいただき恐縮です。

さて,これは私の性格特性が影響しているのかもしれませんが,私にとって結果オーライという概念は存在しません。

自分に降りかかった理不尽な行いや納得しがたい行いに手を拱いて,結果が得られればOK,結局感動できたならばOKという流れには賛同できません。

勿論,たとえ理不尽でも本当に心からそれを楽しんだのなら,その気持ちは尊重されるべきです。

私がターゲットにしているのは,「これ,何かおかしいのでは」という気持ちに蓋をして理不尽な指導方法や気の乗らないイベントをやり過ごし,挙句問題提起をせずに「まあなんかいい思い出にしとこう」という美化で締めくくってしまった人々です。

(※追記:[やり過ごし]というと,イベントに消極的な人間を指す印象が強く感じますが,役職に就いていた人間であっても「おかしい」と思った気持ちに蓋をして働き,その過去を美化したのなら同じです)

むろん,在学中に実際に問題提起しなかった私のこの行いも,先輩のnoteに触発された便乗商法と言われてしまえば言い返せませんが,私は決して過去を美化しませんでした。それだけは違うと言っておきます。

しかし,過去を美化しないで残しておくのは人間にとって相当なストレスになると思います。だからこそ多くの人は過去のつらい経験を美化しがちだと思うのです。

自分の心の安寧を保つために過去を美化してしまうのはある意味自然な働きともいえるのでバッチバチに叩くわけにはいきません(自分の精神を守らない人間の方が「異常者」ともいえる)。防衛機制でいう合理化に近いものを感じます。

私が要請したいのは,過去のイベントを振り返るときに「これって楽しいことばかりだったっけ」「あの時なんで自分は嫌な気持ちになったんだろう」と振り返っていただくことです。

「これ,何かおかしい」というその思いを無視しないでほしいということです。

おかしく思っても黙ったままなら,事態は何も変わりません。

熟考したうえで声を上げること,行動に移すことが重要だと思います。

そういう意味で,今回の先輩のnoteに対して冷笑的な態度を取った人々の事を私はよく思いません。人が勇気を振り絞って啓発したものを無意味・無価値だと簡単な言葉の羅列で嘲っていては,ずっと自分のことを裏切ったままになると私は思います。

運動会自体や應援團の指導方式に賛同している人や,これらによって嫌な思いをしなかった人も中にはいるでしょう。そういう方々も「自分が楽しい(問題ない)と思う物事を楽しくない(問題だ)と思う人もいる」ということを知っていただければと思います(逆も然り)。

そして違う価値観を持つ人間同士が互いを尊重しあえるようになれば,と理想論ですが思うのです。

色々書き連ねましたが,結局母校の件について外野が語っていてもしょうがないので,今の在校生はこのやり方をどう思っているのか,いっぺん匿名アンケートでもさせたらどうでしょうか。何より,選択権は在校生にあるという考えを示して,ひっそりとご提案いたします。

もし(應援團や運動会のやり方で苦しく思っている)在校生の方がこれを読んでいるとしたら,「学校が全てではない。苦しい環境に居続けるくらいなら逃げ出してもいい。声をあげてもいい」と言いたいです。

権利は向こうからやってきません。嫌なことを嫌と言える才能,批判的思考力,そして価値観の違う人とも誠実に対話できる強さを在学中に是非はぐくんでいただきたいです。

以上,母校に固執しまくった卒業生の偉そうな駄文でございました。自粛生活中の暇つぶしになれば幸いです。最後に,この記事を書くに至った先輩のnoteを載せて締めくくりたいところですが,個人情報保護の観点から差し控えさせてもらいます(この文章を見ようと思ったのなら,既に先輩のnoteについての情報も知っているはずだと期待しております)。

以上が内容になります。

noteをフォローしてくださっている部外者の方にとっては「何のことやら」という感じになることは否めないでしょう。

この問題については,部外者が話すより内輪の人間が真剣に話すことの方が重要だと私は思います。勿論卒業してしまった我々も部外者の一部です。

どうぞ,私の過去にも,母校のこの件についてもこれ限りで目を閉じ,触れずに頂ければ幸いです。これだけお願いをさせていただきます。

それでは,在校生諸君へはよき学校生活となること,
その他読者の皆様へはこの先の多幸を祈り,締めくくりと致します。

自重/懲役

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