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Death Stranding 境界と縄の棒化

 Death Strandingのディレクターズカット版が出て、2周目をプレイ。コロナ禍を通してまた色々と感じたので、書いてみる。ご注意として、此処で論じるのは飽くまで私見であることを留意していただきたい。
 読むならゲームのクリアをおすすめ(空気を吸うようにネタバレが記されます)。小説版でもいいけど、ゲームの方がいいかな。
 後は、私の中二病全開なので、苦手な人はお戻りくださいませ。

成長と越境

 私見そして論の前提として、物語・現実において成長・前進は越境によって発する。中二病に乗じていうと越境なんて言葉になるけど要は、成人式とか、卒業式とか、お食い初めとかとかの”通過儀礼・イニシエーション”のことを此処では指してる。そしてこれには、死も含まれるだろう。峠を超えるとか言うしね。

デスストと境界

 さて、前提を述べたので感想というか考察をぶちまけていこう。このゲームを改めてプレイして気づいたのは、境界の鮮明さ。作中のありとあらゆるところに、明確された境界が設けられている。
 その最たるものがセンサーポール。配達所・プレッパーズ・ミュール、果にはテロリストでさえセンサーポールを持ち領地を明確化している。人ととの関わりを恐れる故に、境界を設け、内と外を断絶する。だから、作中の境界は鮮明で強固なのだろう。その強固さたるや、サムは都市に入ることが許されていないし、プレッパーズなんてもってのほか(信頼を築ければ別だが)。
 そしてこの境界とは縄の使い方の一種であるといえるだろう。群れを囲い一つの単位に集約する、これは縄の能力の一種に還元されるだろう。そう考えるとセンサーポールの造形も暗喩ではないかと思える。原始的な縄と棒で構成される囲いのメタファーだったのではないだろうか?
 いずれにせよ重要なことは、この仮定が作中の断絶・分断は”縄”によってもたらされている可能性を示唆している事にあると思う。領域を作るという縄の使い方が行き過ぎた故に(正確にはデス・ストランディングにより、行き過ぎなければならなかった為に)分断が進んでしまった。

一方で唯一、縄的領域から開放されたエリアが存在する。

それはBTの座礁地帯

 雨が降っているところに”なんとなく”出現する。DOOMでない、普通の人には感じることもできない。こんなに曖昧な境界は作中の他にはない。”曖昧”とはつまり、縄の能力によって明確された領域を持っていないことに当たると言えよう。要は、BTには境界が与えられていない。もしくは雨雲といった、他に比較したらあやふやもいいところな境界しか有していない状態にある。(ちなみにマップ上でも座礁地帯は直接的な線引はなされていない)

サムと境界

 さて、主人公であるサムと境界はどのような関係であるだろうか。結論から言えば、サムは越境を許されない人であると思う。
 
第一に、配達人である事がある。配達、物流とは境界と境界の間を行ったり来たりするのみで、配達人はついぞ越境することはない。いわば縄から縄への綱渡り的な状態にあるのではないか。自分が運んできた”物”こそ越境し、自らはまた境界の間に帰り、物を運ぶ。ましてや、デスストの世界では一人でだ。サムは都市をつなげる責を負っているが故に、ついぞ都市に入ることはない。
 加えてサムは帰還者という特殊体質であることが、越境を許されていないと考えられる一因にある。これは、サムに死が許可されていないことを指す。生命にとって最も明瞭で絶対的な越境をサムはできない。サムが死を恐怖する描写はあるものの、明確な死が訪れることは作中にない。


 そして越境を許されないということはすなわち、彼の居場所は非常にあやふやで曖昧なものであるといえるはずだ。私達は出勤・登校また帰宅そして就寝などを通し、越境を行うことを生活基盤としている。越境することで、他者と繋がりことができ自己を認識することができるからだ(また、他者と境界があるが故に越境しないという選択肢もここに生まれる)。これは、自我とはこの世に生まれてからの社会生活によって発生することからも明白だと思う(フードリッヒ2世の実験を調べれば論拠をよりわかると思うが、ショッキングな内容なので要注意)。
 家のような帰るべき場所を持たいないサムにとって、これは過酷な環境・現状だと言えると思う。越境できないことは苦だからだ。例えるなら、後もう一点さえあれば、後1秒だけ早ければ勝てた(勝利という一種の越境)、スポーツのこんな場面のような状態に、常に彼は身をおいているのではないだろうかと思う。おそらくそれは、重くしんどいものを常に背負っている彼の姿にも暗喩されるだろう。

BTと越境

 死に堕ちながら、生者の世界にとどまる亡霊であるBT。つまり、彼らもサム同様に越境を許されなかった人々なのだと思う。

サムとBTはある種の同族である

暴論甚だしいがこのような結論に帰結されるように私は思う。だから彼らは、サムにいいねをくれるのだろう。それも手錠端末で臍帯、つまりこの世との繋がりを断つときに限って。同じような辛い境遇の仲間に助けてもらった返礼が、あの”いいね”なのだと思う。自分と同じように越境できないサム。そしてサムは自分を越境させてくれた上に、この先も前進をしなければならない。そんな同胞に向けての最大限のお返し。そんな風に考えると、BTのいいねは胸熱ものなのかもしれない。

”縄”の誤用

 これまで述べてきたように、私はデスストから強く越境・境界というものを感じ取った。そしてこれは、小島監督が述べていた分断への警鐘につながっていると感じている。

現代人は縄の使い方を間違えている

そういった警告がデス・ストランディングのゲームを通して行われているのではないかと思う。特に、インターネットに関して。
 インターネットという字面に関して考察すれば、ネットとは縄。すなわちインターネットは本来、縄的道具なのだといえるはず。縄的道具であるということは、人々をつなげよりよい世界へと進む道具であるということだと私は思う。
 しかし、実情としてはどうだろうか。SNSでの炎上や、誹謗中傷は日常茶飯事でとても前進しているとは言い難い。むしろ、みんなで棒を寄せ集めて縄でくくってより強大な棒を作り出している。そんな状況ではないだろうか。

縄の棒化

デススト内の”領域”のようにこれがなされてしまっているのではないか。これではいけない。これが小島監督のメッセージだったのではないかと私は思う。こんなに大きな網を作ったのだから、相手を理解し受け入れていくことが大切だ。そんなメッセージを私は感じた。


 とまあ、私はここまで綺麗事述べた。が正直に言ってどうしても気が合わない人間というものはいると思う。少なくとも私にはそういった知人はいる。だから、不真面目な私だが綺麗事に近づけるよう頑張る。という情けない宣誓でもって考察は締めます。

考察とは関係ないけど、マジで物流ありがたい話

デスストをやって変わったこと。物流業界への感謝の重さが今まで以上になった。デスストとは違い車両が気軽に使える現実だけど、朝は9:00から配達されるし、こないだはわざわざ21:00過ぎに配達に来て頂いたこともあった。本当にありがとうございます。
 デスストに加えて、運送業者の倉庫でのバイト経験もある。大量にある運搬物を仕分けていくのだが、これが大変だった。Amazonのセールには殺意を覚える勢いだった。今は別のバイトをしているが、自分が離れただけで誰かが物流の為に苦労してくれいていることには変わりない。というか物流に限った話ではなく当たり前だけれど、見えない誰かの苦労によって日常というものは形成されてるのだな。ゲームゲノムで小島監督がいっていた、道とかが最たるものだけど。こうやって考えるとすべての物に感謝なのかもしれないな。
 毎日生きてれば、イライラしていてとても感謝するような気持ちになれない日もあるような私だが感謝を伝えられるよう頑張ろう。

なんか、自分の駄目人間さを露呈させ情けないやら、締まらないやら......
結局何が言いたいんでしょうね。まぁ、一応これにて終わります。

では、また。

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