思想のアップデートと不具合
必ずしも妥当とは見なされていない表現のひとつに「思想・価値観のアップデート」というものがある。
問題点を改めるのはもちろん良いことだが、
① アップデート後の思想・価値観が優れているとは限らない
② にもかかわらず、何か優れているかのようなニュアンスを含んでいる
③ 現状の思想・価値観をことさらに悪いものと見なそうとする
④ アップデート後の思想・価値観に問題がある場合の再アップデートが遅い
といった種々の問題点が別にあるため、そもそもこの言い回し自体が妥当性を欠くのでは、という疑問が提出されているわけだ。
結果、思想や価値観に対して未だに「アップデート」という言葉を無邪気に用いている人間のほうが、「アップデートできていない」可能性を示してしまう、何と言うかトラップみたいな表現と化している。
さて、個人的には上で挙げた4点のうち、現状を考えるともっとも問題なのが④ではないかという気がしている。
アップデート=より良いものへの上書き、との前提により、アップデートしてみた結果、以前の思想や価値観では生じていなかったはずの問題が別に生じた場合の対応が遅くなってしまうのだ。
たとえば、両性の平等化という思想自体は良いものだとしても、実際に夫婦の役割分担をなくして共働きを推し進めていくと、育児はどうするのか、キャリア形成はどうなるのかといった問題が別に生じてくる。
これらは、両性の平等化という思想や価値観が欠陥品であることを意味するものではないが、現実として解決されるのが望ましい問題ではある。
ところが、なまじアップデートという発想でいると、役割分担が消滅したことによる問題の解決を目指すことが、思想・価値観自体への攻撃と捉えられてしまう場合もあるようなのだ。
より優れた思想・価値観になったのだから問題などあるはずがない、アップデート後の思想・価値観が気に食わない人間が、不具合にかこつけて旧態依然とした思想・価値観に戻そうとしているのだ、と。
もちろん、このような単純な話ではない。共働きによる育児の担い手の問題があるとして、片方の性別は家庭に在住しているべきだ、と結論づけるのではなく、核家族という形態を見直すとか、シッターを雇うだとか、そうした解決手段も視野に入れるべきだろう。
あくまでも、アップデート後に不具合が見つかったなら、それらへの対処も含めて再アップデートが早急に必要だというだけの話である。
思想や価値観は、敢えて言うならアップデートなどという一方通行のものではなく、良い点もあれば悪い点もある、常に改善の余地があるものだと思う。それをじわじわと不具合をなくしていければいい、といったことなのではないか。
そのためには、旧いものは常に悪いもので、新しいものは全てにおいて優れている、との思い込みを捨て去らねばならない。
どちらも一長一短あり、一長のほうをより多く採り入れていく。そうした姿勢があるといいのだろう。
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